Idle mode

備忘録

絶対に社会に適応したくない

 統合失調症の発症から強制入院され地面を這いつくばりながら生還(寛解)し、転職に成功してから半年が経とうとしているが、改めていかに自分がこの社会に向いてないか、そして社会に期待を抱いていないかを痛感したので、もう全部やめにしたい。

 頭の中の声がうるさい。これは決して症状の意味ではなく、生来の癖であらゆる物事に対して刺々しい批判的思考が滑り寄ってきて、さらには結論がすぐに出ないものだから(もしくは永遠に出ない)、意味のない問いばかり浮かんできて心底嫌になる。私にとっての批判的思考はより良い結論を導いたり本質を見抜こうとするというよりかは、もはや常に空回りして極端な結論を導き出そうとする懐疑的思考になってしまっている。だからといって物事のありのままを受け取るようにはできていないので、手綱をうまく握れずブレーキも壊れかかっているこの思考と一生付き合っていくしかない。そのことが私を絶望させるには充分すぎるので、もう全部やめにしたい。要するに私はこの世界に対しても自分自身に対しても絶望している。絶望して、心底疲れているし、己が身を預けられる場所を見つけようとする意欲もすべもない。

 この世界にも自分自身にも絶望した人間が行き着く先は一体どこなのか? 私はそれを死だとは断言しないけれど、間違いなく生死の潮目に両手を浸すということは想像できる。だから最近の自分が生きるか死ぬかを考えていることを感じる。いまの自分が生きている中でもっとも苛烈になっているのを感じる。もっと穏やかになりたいと感じる。一方ですべてが穏やかになって凪いでいればそれで全部解決するのだろうかとも感じる。そして私はこう思う。解決はしないが進行はする。進行している以上、後戻りはできない。

 自分がじりじりと追い詰められていってるのがわかる。しかし私はそのことを問題にしようとはしない。一度信用を失った人間がそれまでの付き合いを取り戻すことができないように、ただ生きているというだけでなぜこの世界を信用し続けないといけないのか? なぜ「この世界で生きているならそれだけで世界の過去や未来、もしくはあれこれに期待せよ」と強要されないといけないのか? なぜ世界や社会への信用と生きていくことが両指の腹を合わせるように密接に関わっていないといけないのか? そんなことばかり考え続けている。

 たとえこの世界が現在よりずっと良くなったとして、もしくはずっと悪くなったとしても、私はこの世界に対する不信感を決して崩さないし、崩せない。だから私は自分なりに世界をより良くしようとは考えないし、ましてより悪くしようとも思わないし、寄せ合う肌のように密着してくるこの世界をできるだけ自分から遠ざけようとするだろう。そもそも世界に対する態度の最終決定権はこの私にあり、触発されるのはあるとしてもそれは誰かが侵犯していいものではない。

 私はもう間違っているのはこの世界なのかそれとも自分なのかという問題について関心がない。世界が間違っているからといって自分が正しいとは限らないし、また自分が間違っているからといって自分の実感である苦しさや怒りまで否定する必要はない。だから自分の取り巻く状況を自分と世界という二項対立に当て嵌めないほうがいいし、その理由もないという結論が自分の中ですでに出ている。だから私の中ではこの世界は救う必要もなく、罰する理由もなく、間違っておらず、正しくもなく、良くもなければ悪くもない。ただ様態だけがそこにある。これがニヒリズムかどうかはわからないが、現在の私はこう考えている。もしかしたら未来の私の考え方はもっと違っているかもしれないが。

 忘れてはいけないのは、世界を疎めば自然と世界から疎まれることだろう。眼差しを向ければ見つめ返されるように、たとえこの世界を憎んだとして私は憎み続ける主体の立場だけにいることはできない。世界に憎悪を向ければ、世界はその個人に対して憎悪を返してくるとさえ考えている。だから必要なのはその視線を向けられる覚悟なのだろうと思う。

 今後の私が己の社会性の欠落を恥じて社会に適応しようと努力することは絶対にないだろうし、もしも社会がそのツケを払わせようと私に報復してきたらその時は自分の誇りや自尊心を凌辱されて惨めにむごたらしく死ぬかもしれないということを覚悟して生きていかなければいけないのかもしれない。もちろん現状そんなことにはなっていないが、ならない予感が振り払えないのでいまから覚悟を持つ準備をしている。

 私にとって生きることは賭けに近づいている。賭けるものは自分の生。求めるものはチェーホフの『ワーニャ伯父さん』から言葉を借りれば《ほっと息がつける》 *1 もの。私はもはや生きることを喪失としか捉えていないが、それでも生きているのはゲーム相手であるこの世界に負けたくないからである。私にとって何かを失うことよりも絶対に負けられない相手に負けることが何よりも堪えがたい。

 だからどんなに惨めでも自分が屈しない限りは負けていないから生きていくつもりであり、辛酸を嘗めさせられた以上その相手には何らかの形で絶対に復讐するつもりである。以上。

*1:《でも、仕方がないわ、生きていかなければ! (間)ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命がわたしたちにくだす試みを、辛抱づよく、じっとこらえて行きましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。そして、やがてその時が来たら、素直に死んで行きましょうね。あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなにつらい一生を送って来たか、それを残らず申上げましょうね。すると神さまは、まあ気の毒に、と思ってくださる。その時こそ伯父さん、ねえ伯父さん、あなたにも私にも、明るい、すばらしい、なんとも言えない生活がひらけて、まあ嬉しい! と、思わず声をあげるのよ。そして現在の不仕合せな暮しを、なつかしく、ほほえましく振返って、私たち──ほっと息がつけるんだわ。わたし、ほんとにそう思うの、伯父さん。心底から、燃えるように、焼けつくように、私そう思うの。……(伯父の前に膝をついて頭を相手の両手にあずけながら、精根つきた声で)ほっと息がつけるんだわ!》
アントン・チェーホフ著・神西清訳『かもめ・ワーニャ伯父さん』新潮文庫 1967年 pp.238-239)