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備忘録

別に救わなくても構わないこの世界に祝福を(そして呪いあれ)

 上の画像は『さよならを教えて』というエロゲから引用した文章です。

 個人的にはけだし名文だと思っているのですが、なぜそう感じたのかを詳しく語りたいと思っています。

他者のいない「僕の世界」

 まず前提としておさえておきたいのは、この時点の語り手である人見広介は他者が介入できる余地の少ない精神状態に陥っていることです。

 もうこのゲームも20年以上前のエロゲなのでネタバレしても時効だと思っているんですが、いちおう断っておくと、主人公は統合失調症という病気を患っていて入院しているのですが、本人はとある女子校の教育実習に参加していると思いこんでいて、主治医である大森となえ(画像背景の女性です)とのやりとりから上の場面に至っています。

だって、僕の知覚の中以外のどこに世界があるって言うんだ?

 この文からわかる通り、人見広介は彼自身が知覚する他者にもその他者の世界が存在することを想定していません。彼の世界と他者の世界が絶望的に擦り合わず断絶しているから、彼のみが世界という誇大妄想に囚われます。

自己の存在確認なんて、誰にもできはしない。スーパーヒーローだって。

 たしかに道具を使わず自分で自分の顔(存在)を確認することはできませんが(鏡という他者がなければ自己を認識できない)、他者の視点を経由すれば自分で自分のことを評価できる、つまり自己確認ができます。

だから僕が世界じゃないか。僕は世界だ。だから僕が世界を救うしかないんだ。

 彼が全人類を救おうとするとき、またその全人類の苦悩を背負おうとするとき、その全人類とはすべて彼自身のことを指しています。全人類はどれを数えても彼しかいません。なのでとなえさんも全人類の苦悩を背負わなくてもいい、たったひとりで世界を救えるなんて思わないほうがいいと助言しているのですが、彼女の言葉は彼の耳にはまったく届いていません。なぜなら彼の精神世界には他者(となえさん)の視点がするりと欠落しているからであり、彼と彼女同士の世界がどうしようもなく断絶しているからです。

僕のお姫様‥‥。
僕がキミの救いで、キミが僕の救いだ。
セカイ系」との類似点

 ところで彼のこのスタンスはセカイ系という言葉で言及されるスタンスに非常に当てはまるかもしれません。

 セカイ系とは『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』に代表されるような物語の類型のことを指し、特徴として、主に自意識過剰な語り手がたかだか自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる傾向があるのですが、個々人で言及があるにしろ定義が曖昧なままはっきりしておらず、ここは『波状言論 美少女ゲームの臨界点』編集部注の、

主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項〔社会領域や社会的影響〕を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと(亀甲括弧内筆者、丸括弧内原著)

 という定義が後々の言及を踏まえて適切だと思ったので引かせてもらいます。

 さらに補足させてもらうと、「具体的な中間項を挟むことなく」というのは世界の危機に対する国家の動向や国際機関、社会やそれに関わる人々がほとんど描写されず、主人公たちの行動や危機感がそのまま「世界の危機」にシンクロすることを指します。

 たとえば強大な敵によって世界が危機に陥ると国家が軍隊を要請したり経済に影響が出て人々の生活が厳しくなるみたいなのがありますが、そういう描写がいっさい描かれずに主人公たちの動向のみで世界の危機具合が変化するという感じです。

 話を戻しましょう。統合失調症という重症化すれば個人そのものの危機になりかねない病気を患っている人見広介のスタンスは上記で示したセカイ系の定義に非常に当てはまるかもしれないという話をしました。

 なぜそう思うかというと、セカイ系で示された人間の社会全体という意味である「世界」を彼自身の「(精神)世界」と置き換えたら、状況は合致するからです。

 なぜ置き換えられるのか? 先ほど示した通り、彼の精神世界には他者の世界が考慮されておらず、また他者(の視点)が介入されておりません。ゆえに彼しかいない世界は彼のみの世界であり、また他者のいない世界は人類=社会全体=その人自身という等式が生まれます。これは人見広介の(精神)世界には全人類のどれを数えても人見広介しか存在しないという言い換えにもなります。

「きみとぼく」と「他者と個人」の違い

 では彼が救いを欲している「キミ(お姫様)」とは誰なのか? これはそもそも問いを変えるべきで、「キミ」はそもそも人見広介にとっての「他者」なのか? と考えるべきです。なぜなら「誰か」とは必然的に他者が存在することが想定されるニュアンスを含むからです。

 結論から言うと「キミ」は人見広介にとっての「他者」ではありません。なぜなら彼の言う「お姫様」というのは「『私』のご都合通りに従ってくれる人形的な存在」もしくは「存在しない空想上の完璧な理解者」であって、「『私』の理解をすり抜けるような他者」ではないからです。

「キミ」に救いを求めまた求められようとする彼は非常に追い詰められています。彼にとって「世界の危機」とは「個人の危機」と同義です。個人の危機に陥った人間が取れる行動は主に3パターンあり、(救い主に)救済されるか、(自分の世界を守るために)戦うもしくは抗うか、そのまま何もできず人間として死ぬ(発狂)かのどれかしかありません。セカイ系のヒロインが無力な主人公に代わって戦闘もしくは救済を「宿命化された」のは偶然ではないと思います。

他者を招き入れることで個人の危機を脱する

 ではこのような個人の危機を普段から回避するにはどうすればいいのか? 具体的な方法は色々あると思いますが、原理的な観点から自分の世界に複数の他者(の視点)を招き入れ、適度に交流を図ることだと思います。要は「世界の危機」の際に助けたり頼ったり対応できたりする他者というワンクッションがないからその危機がダイレクトに個人の危機に直結するわけで、他者の世界との共通項を作っておけばその数だけ社会性を獲得できるからです。

 言ってることは特に難しいことではなく、たとえば小中学校の頃に友達の家に誘われて、もしくは自分の家に誘って複数人で遊ぶなりゲームなりして駄弁るという経験が(私は「誰にでも」という言葉に抵抗があり本当に誰にでもあるのか実際に確認したことないのでここでは一例に留めておきます)あると思うんですが、大人になっても自分の好きな話や個人的な悩みなどで他者と盛り上がったり頼れたらいいなという話ですね。余裕があるなら違う視点の他者の交流を図ろうとするのもいいと思います。

 となえさんの言う通り、たった自分ひとりだけで自分の世界を救おうとすると必ず無理が来るので、別に自分が世界を救おうとしなくても誰か(自分の世界との共通項を持ってくれている他者たち)が救おうとしてくれるから大丈夫というスタンスが必要なんじゃないでしょうか。いざとなれば自分も参入して他者と協力連携して危機に立ち向かっていけばいい話ですからね。それまでスーパーヒーローでなくともモブはモブのままでいいわけです。

現代の「きみ」に対応する「推し」という存在

 ここまでこの話は「きみとぼく」の話であり、適用されるのは人称とセカイ系という観点から男性の場合に限られると思った方はいるでしょうか? 残念ながら私は最初から個人の問題の話をしているのであり、そもそも人見広介に限らずとも統合失調症は個人が患う人間的な病気です。ゆえに汎用的な話をしています。

 なぜ私は「お姫様」という語句を説明する際にわざわざ「私」という一般的な人称を使ったのか? 「『私』のご都合通りに従ってくれる人形的な存在」で遊ぶようなお人形遊びは本当にごく一部の人間に限られるのか? 現代の人間が個人の危機に陥ったとき、その人間に対応するような「きみ」とは一体誰なのか?

 このような問いに対して集約的な示唆を与えてくれる語句をひとつ提示しておきましょう。それは簡易的な神(偶像)である「推し」のことを指します。

 というわけで「推し」に関する事柄まで絡めて語ろうと思いましたが、紙面と気力が足りないので示唆のみに留めておきます。これはたとえば好きなキャラとその解釈、ひいては二次創作におけるキャラとの向き合い方や解釈違いにも大きく関わってくるんですが、これだけで一本書けそうなのでちょっと頑張って書いてみようと思います。とはいえ書くの遅いのであまり期待しないでください。

 ちなみにセカイ系については前島賢の『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』という本が詳しいのでよかったら読んでみてください。非常に良い本だと思います。