Idle mode

備忘録

人物描写について考える

 小説を書くとき、人間をどのように描写するかでよく迷うことがある。

 迷うといっても、それを一日中考えて解決のきざしがやっと見えるというわけでもなく、いよいよ書く気持ちになってテキストエディタと向かい合い、そろそろ自分が書くであろう人物が出るか出ないかのところで手がピタリと止まる。いったいどうすれば自分の思いえがいているイメージを的確に伝えられるのだろうか? 考えれば考えるほど本来の目的は意識の外に追いやられ、代わりに浮かんできた疑問はしばらく頭のなかをぐるぐる泳ぎまわり、やがてぶよぶよの沈殿物のような感触を得るようになる。それをぐっとつかもうとしても、なけなしの思考は霧のように輪郭が曖昧になり、答えにたどり着く道筋は見えてこない。

 もちろんそんなことを考えているあいだは手が動いたりすることもなく、いつのまにか目の前の空欄は大きな白い壁に変わっている。向かい合うものではなく、立ちはだかるものになってしまった時点で、私の文章に対する姿勢は書こうとするときとはまったく違うものになってしまったのだと思い知らされる。長く考える時間を長く書ける時間に注げられたらどんなにいいだろうとは思うが、書くうえで考える余地が生まれた以上、私のばあいは自分のなかでその課題をある程度消化できないと先も後もうまくいかないことが多いので、考えるよりほかはないとも感じる。

 人間を文章で表現しようと思うとき、まずその手法について考える前に、私の目が現実の人間をどのようにとらえているのかということから考えていきたい。

 経験則でいうならば、私の目が人間をとらえているとき、《服装や髪型、その時点での表情や身につけている持ち物などの外見から判断できる身体的性格》と《発言の内容や行動の流れ、ある表情からある表情への変化などから判断できる心理的性格》(以下、このふたつを定義とおき、前者を①、後者を②とよぶ)に大きく分けることができる。また、顔が見えずとも声の高さだけで相手の性別を判断できる要素にもなったり、声の調子を変えると自分の印象や心情も違ったものを伝えられることから、人間の声そのものや声のトーンという要素は①でも②でもあてはまり、身体と心理の両面的な性格を見つけることもできる。ほかにもいろいろな要素を見つけられるかもしれないが、とりあえずはこのふたつの定義で私の論を進めていく。

 ①は平面的で、②は立体的だ。それぞれシャッターカメラの写真とビデオカメラの動画との違いを思い出せばいい。写真に映る人間は動かないが、動画に映る人間は動く。このとき、カメラのレンズは人間のほかに、写真なら時間の一点、動画なら時間の連続した線をとらえているといえる。写真の人間は面的で、立体空間をある面に沿ってスライスした断面におさまっている。写真のなかでは風景の奥行きや陰翳などの立体的な位置をとらえることができるが、人間の性格という点に限っていうならば、写真の人間は主に①で構成されている。しかし、①の情報を得たからといって、それだけでその人間の性格を完全にとらえることができたとはいえない。時間が止まっている人間の姿からは、その瞬間の気持ちのニュアンスは伝えられても、連続的な時間にある日常生活の営みからかたどられるような全体の性格までは十分に表現できないからだ。外見から得られる印象だけで心理的な奥行きがほとんど見られないような性格は、平面的といえる。しかし逆にいえば、①は時間の連続性を必要とせず単純に相手の印象を任意の瞬間でダイレクトに伝えることができる。時間の止まった写真の人間の印象を判断するとき、私たちは瞬間の性格という点を見つめようとしている。

 動くことに大きな意味を持つものをひとつ挙げるとするならば、私は人間の心理と答える。心理はまわりの環境からの刺激や自発的な感情の反応によって動きつづける。時間や状況によって心理はその姿を常に変え、瞬間瞬間にある人間の表情たちは前後関係によってそれぞれの意識の肌を互いにきわだたせる。ふつう、生まれてからずっと泣きつづけている人間なんていないし、死ぬまでよろこびつづけている人間もいない。憎しみさえその原因によって大きく波立ち、原因の解決なしにとつぜん感情の水面が完全に静止することはまずない。涙はそのうち疲れ果てて泣き枯らし、よろこびはいつのまにかその方法を忘れ、憎しみはわざと思い出そうとする行いがそれ自身を支えていることもある。つぶさに見れば、ある精神状態Aからある精神状態B、ある精神状態Bからある精神状態C、ある精神状態Cからある精神状態D……というように、心理は時間の流れによる精神の移り変わりによってその意味を成り立たせている。それはそれぞれの意識という点が時間の過程というひもで結ばれて切れ目のない線を構成しているという意味で、連続的といえる。

 時間が止まれば何も動くことはない。何かが動くためには瞬間的ではなく連続的な時間という条件が不可欠だ。その点で、②はこの条件を厳密に守る。私たちが相手の性格を把握しようとするとき、理解という姿勢でその人間全体を深く洞察するならば、①よりも②のほうに比重が置かれることが多い。①の要素は相手の外見的な性格と内面的な性格に矛盾を起こすこともあるが、②の要素は相手の心理動向そのものに直結していて、私たちに推察と再考の余地を与えてくれる。つまり、自分自身の中に浮かび上がった相手の像が外見という輪郭のほかに思想という色彩を帯びる。それが虚像や誤解かどうかは問わない。現実ではそういう場面もあるが、小説の人物描写においてはそれが事実になるからだ。相手の言葉と行動から、自分が生み出した相手の像にきざまれる心理的な奥行きがひろがり、真実のひだが波立つ。全体の性格がわかる余地が十分にあり、掘り下げられるという意味で立体的といえる。これも逆にいえば、②は性質そのものに時間の連続性が前提にないとそもそも成り立たない。②を判断するとき、相手の言動から思想の姿勢をとらえるのは瞬時にできるものではなく、どうしても思考時間の経過と余地が生まれてしまう。永遠にのびる性格の線から、私たちは任意で長さを決めたある時間の線分だけを切り取ってそれをなぞろうとしている。

 ここで注意しておきたいのは、私は①と②のどちらが重要なのかということを論じるつもりはないということだ。私なりに①と②の性質を掘り下げながら話したまでで、平面的な①と立体的な②のあいだに価値判断の高低差は生まれないと考える。むしろ、小説における人物描写という点で話せば、このふたつは描写のタイミングと条件を考慮した使い方によって大きな効果をもたらしたり、また使い方しだいでその逆もありうると考えられる。

 ①と②の性質をそれぞれ話したうえで、ようやく人物描写の手法について話すことができる。前述を吟味しながら、私なりの手法を自分自身で考案してみたい。

 ①から考えられる描写の手法については、《服装や髪型、その時点での表情や身につけている持ち物などの外見から判断できる身体的性格》という定義の通り、描写する人物の性格がつかめるように外見の特徴的な要素を書くことが思い浮かぶ。特徴的とは言ったが、これは書き手自身の裁量と性格にもよる。もちろん自分の書く物語の文脈から外見的な条件を求められることもあるだろう。たとえば、物語の季節が猛暑だったばあい、登場人物のひとりが初登場で真冬の服装をしていれば不自然な印象を受ける。その話の先の展開にもよるが、そのことにまったく言及されなければ不自然さは話の結末まで尾を引くことになる。人物の外見や舞台の環境を含んだ物語全体の設定を条件と言い換えれば、書き手は特別な事情がない限り効果的あるいは合理的に条件を満たしているか考慮せざるを得ない。

 では、外見の描写で相手の性格をどのように書けば効果的に伝わるのだろうか。考察のひとつとしては、①は人物の身体に付属している性質を持つから、それらには読み手に抽象的なイメージを表そうとする象徴的なニュアンスや属性も含まれているのが考えられる。たとえば、ピンクのカチューシャは女性の持ち物、タキシードは男性の礼装、王冠は王族の証、どぎつい配色の服装は趣味が悪いという印象、ほかにも思いつけるだけ思いつける。これを十分に生かせば、①の性質を使いこなすことができるだろう。しかしここで考えておきたいのは、逆に象徴が持つニュアンスや属性を不必要に頼りすぎることで、描写する人物の性格のイメージに安直な印象の氾濫を起こしかねないおそれもあるということだ。あくまでも私は①の象徴的な性質はそれらに付随する人間の性格、もしくは日常生活や習慣から由来するものであり、簡単に象徴的な性質だけ扱ってもそれが人物本来の性格に根ざした表現になるとは限らないと考えている。描写する前の人物の身体は透明だ。鼻も目も口も、髪型も服もない。しかし小説では人物の全部が全部を表現する必要はなく、的確な表現をひとつふたつ被せるだけでその人物の全体像が一気に明瞭になることがある。もしくはそのタイミングで書かなくても、物語は一本の筋でつづいているので、書こうと思えば展開の任意の場所で書けるポイントも見つけられる。つまり、描写の加減と筋のどのあたりで書くのかも重要だと考えられる。

 ここで話しておきたいのは、どうして①は象徴的なニュアンスを感じることができるかというと、まず私たちが象徴から得られるニュアンスを意識のなかでそれ以前に習得しているからであり、それらは必要なときに応じて意味や印象という形を与えてくれる。①は平面的だという説明を前述で話したが、それに沿って考えればこれも写真のくだりと同様の考え方ができる。つまり、①の持つ瞬間の性格と時間の連続性を必要としない性質は、ある象徴をとらえてその意味や印象を自然に思い浮かべるというばあいにも前述と同様の性質を受け持つことができると言える。ひとつ違うのは、話す主語が人間の性格なのか、それともある象徴なのかという点だが、人間の性格をキャラ、つまりは象徴の集合ととらえてしまえば、複雑に入り組んではいるがひとつひとつは同様に議論できる。

 ②から考えられる描写の手法については、《発言の内容や行動の流れ、ある表情からある表情への変化などから判断できる心理的性格》という定義から、会話文の内容や行動描写、ほかにもしぐさや言葉づかいなどのふるまい、汗が流れるなどの不随意的な反応の描写などが思い浮かぶ。話す会話の内容からはもちろん、人物が場面ごとにどのような行動や反応をしたのかの積み重ねによってその心理的性格がおのずと浮かび上がってくるといえるだろう。たとえば人見知りの激しい人間を描写したいのなら、他人と話すときにあまり目を合わせられない反応をとったり、状況が状況だと流暢に喋るのが難しい、人と話すことを意識的に避けようとする、あるいは緊張する場面で無意識に下を向いてしまうなどの、性格をつかめるいくつかの動作を物語の流れのなかでたびたび書くことによってその人物が持つ②の要素を効果的に表現できる。その人物だけがとるような特定の行動は、その人物の個性に直結する。ここで考えたいのは、どの描写にも時間の経過が必ず絡む。②を説明するほうでも話した通り、言動の表す心理的性格は時間の連続性を厳密に守った線的なものだ。発言や行動には必ず一連の始点と終点による時間の線が存在し、人間の心理は変わることに大きな意味を持つ。変わるということは、時間が流れているということだ。つまり、人間の心理動向には常に時間の過程という背景があり、このふたつは互いに強く影響しあっているといえる。

 ここでひとつ気づくことがある。時間の流れを無視した心理描写は成り立つのかどうかということだ。前述でも話したが、人間の心理動向には性質そのものに時間の連続性、つまり時間が生み出す過程の線が前提にないと②と同様にそもそも不成立になる。これは現実世界で厳密に成り立つが、しかし小説という文章媒体ではこの前提が守られてなくても条件が成り立つことがある。それは物語じたいの問題ではなく単純な書き方の問題にあって、たとえば物語の冒頭で描写する人物に性格の設定や心情などをその人物自身から箇条書きのような羅列で語らせたり、本来の話の文脈とは説明や脈絡もなく「その人物はこの場面で本来そういう心情である」と前提としてあつかい、それによる行動や会話を描写することで先ほどの定義と矛盾しても描写の存在はできる。このばあい、心情には人物の意志という意味も含まれる。現実の感覚に根ざした話を考えるのなら、心情の前後には必ずそれを引き起こす隠された因果関係というものがあり、言い換えれば因果関係は時間の過程のなかにある文脈だ。それらをまったく無視した状態で心情や人物の身の上を物語の前提で書かれていても、印象としては不自然さを持ってしまうだろうし、なによりあまり効果的ではない手法だと私は考える。小説は、主に人間の営みや姿勢を文章でえがくものだ。それが人間によって書かれている以上、その人間の認識につきまとっている現実という感覚はやはり無視できない要素だと思えてならない。