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備忘録

20230202の日記

この文章は

 贅沢にScrivenerで書いてます。Scrivenerとはざっくり言えば論文執筆などの長文作成ソフトなんですけど、長文を書く機会も能力もないのでこうやってアウトラインが組める高機能のメモ帳として使ってます。高機能アウトラインプロセッサというのかい? 贅沢な名だねえ……。

 一時期テキストエディタに凝ってた頃に「これだ!」と思って解説書と一緒に買ったんですけど、設定だけして見事に使いませんでしたね。小説のネタとか思いついてこれで書きはじめた文章がいくつかあるんですが、頓挫してどれも書きかけのままです。いつか書き上がるといいね~(フラグ)。

 直近はまた使ってみようと思い設定を見直してみたらすでに過去の自分が痒いところをほぼセッティングしてた。こうなると自分が特に意味もなくただ漫然と時間を潰したいだけだと自覚させられてつらいね~。懲りずにもう一回やりそう。

 それはそれとして慣れてくるとさすが高機能と謳ってるだけあって便利に感じます。感じるだけ。まだ半分の機能も使いこなせてるとは言えないけど、いろいろ試しながら遊んでみようと思います。

最近勉強してる内容

 病気の後遺症で破壊されたモチベが復活しはじめ、やりたいことができたので2023年は資格や検定の勉強を頑張るとTwitterでは言ったんですが、具体的には趣味の範囲でIT系の資格を中心にいくつか取るつもりです。

 現時点で興味があるのはJavascriptPythonなので、その前段階としてHTML5プロフェッショナル認定試験 レベル1とPython3 エンジニア認定基礎試験を受験する予定です。

 どれも基礎レベルの試験であり、最終的には応用レベルであるHTML5プロフェッショナル認定試験 レベル2とPython3 エンジニア認定実践試験まで受験して合格できればいいなと考えてます。ほどほどに頑張ろう。

 ちなみにHTML5プロフェッショナル認定試験のためにWeb問題集サイトのPing-tに2ヶ月分の有料コンテンツを課金したので、あわよくば1ヶ月以内で試験に受かって余った残りの1ヶ月分はPostgreSQLを使ったDBスキルを示すOSS-DB Silverの試験勉強に時間を割きたいと思ってます。せっかくなので受かるところまでいきたいねえ……。

ポカリがうまい

 題の通り。最近ポカリにハマっている。

 人生であまりコーラを飲めなかった反動と安く買える自販機が近所にあることが奇跡のマッチングを起こしたことで集中的にコーラばかり飲んでいた時期があり、ひどいときは週4~5の頻度で500mlのコカコーラをがぶ飲みしていた。

 もちろん体にはすこぶる悪かったわけで、月に1度の診察で血圧を測ったら以前よりもびっくりするほど高くなっていたので(体重はそこまで変わらなかった)これはやばいなと焦りはじめ、そろそろコーラに飽きていたのもあってコーラを断って代わりにポカリを飲みはじめた。飲みすぎるのもよくないので多くても週3までに飲む頻度も控えるようにした。

 1ヶ月後、血圧はかなり下がり正常値の範囲に落ち着いた。やったね。

 とはいえ、コーラがポカリに代わったところで依然として飲みすぎには気をつけるべきではある。さすがにコーラほどではないがポカリも糖質が比較的少なくない飲み物なので調子に乗ってがぶ飲みしてると将来確実に糖尿病になりそうなのが怖い。適度に生活習慣を見直しながら用法用量を守ってこれからも飲んでいきたいですね。

 ただそれを抜きにしてもポカリのおいしさは尋常でないと感じる。ワクチンの副作用でグロッキーになってたときも全部ポカリのおかげで助かったようなものだった。当時はもはやポカリ吸ってた。

想起させたいのはエピソードなのか評価基準なのか

 日記を書くとき、なるべく1つ以上エピソードを想起させるような内容を挟むように心がけている。なぜかというと、小説を書くときの練習になるんじゃないかというあわよくばみたいな考えと、あと単純に漫然と物事を評価的視点で見ようとすることに疲れを感じてるから代わりにエピソードでも書いて読み返すときにのほほんとしていようというのがある。

 基本的に他人の人格が垣間見える所感や思索が綴られている文章を読むのが好きなので自分もそのように書こうとしているけど、そううまくいきそうにない。もっとすらすら書ければいいのだけれども、いつものように時間がかかる。時間がかかりすぎて書くモチベが冷める。負のスパイラル……正直こればかりは辛抱強く付き合っていくしかない。

 ふと日記形式の小説が気になってサルトルの『嘔吐』が身近にあったから手にとってパラ読みしてみたけれど、参考にするにはあまりにも観念的かつ描写的だった。『嘔吐』は数年前に読んでいたが、ロカンタンがマロニエの樹の根を見て吐き気を催す場面は意外と覚えており、それ以外はほとんど覚えてなかった。これを機にもう一度読み返してみようかな……たぶんずっと先になりそうではある。

 ここまで書いて、(つらいことだが)自分が求めてるように書くことと実際に自分が書けることは切り分けて考えたほうがいい気がしてきた。ふだんなら自分が求めることに漸近できるように書こうとしているのだが、正直いまの自分だと疲れてるからかどうにもならないことを「どうにもならないねえ……」と管を巻いて延々と憂鬱なことを書いてるほうがまだ性に合ってる気すらある。というか私はそういうのも好きなので気分しだいでやりかねないです。

 題の話。冒頭でなるべくエピソードを想起させるようにしてると書いたけど、この項目にいたっては意図せず評価的視点もそこそこ混ざっている。ある文章が読み手に筆者のエピソードを想起させるのか筆者の評価基準を想起させるのかの違いについてちょっと考えてみたけど、おそらくその文章の中にあるそれぞれエピソードと評価の配分によるだろうという結論に落ち着いた。たとえば物語なら想起させるのはもちろんメインとなるそのエピソードだし、評論や批評なら読み手にその筆者の評価基準が主に想起されるはずである。

 ただこれはごくシンプルかつ当たり前の話であって、もしもある文章のエピソードと評価の配分が半分ずつだったら? もしもある文章のエピソードの配分が6割前後で、残り4割が評価ならそれは読み手にどのような想起をもたらすのか? そんなことがつい気になった。そのような文章がどんなジャンルに該当するのかどうかは私は興味がなくて、ただ読んでみたらどんな読み味がするのかな~自分が想起させたいのはどんな内容なのかな~と改めて思った次第です。次になにか本を読むときはちょっと意識して読んでみることにする。

 念のため書いておくと、上記で言った読み手の想起する評価基準というのは「読み手自身の筆者の文章に対する二次的な評価基準」ではなく、「読み手自身が最初に頭に入れるであろう筆者の一次的な評価基準」のことを指している。ある評価は総じて別の評価にメタ評価されるか、あるいはひとつの基準として流用されやすい。私はそんな評価のメタゲームにほとほと疲れを感じてしまって、こんなことを考えていたんですね。