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備忘録

20200314の日記

大まかな方針

 唐突に日記を書いてみようかなと思う。目的は主にふたつあって、ひとつ目は日常的に考えていることの整理をつけること、ふたつ目は不定期に突如浮かんでくるアイデアや疑問の言語化につとめること。振り返りやすさのためにもとりあえずはこの二点を心がけてみたい。もしかしたら後になって目的が増えてきたり、方針から大きく逸れたりするかもしれない。まあそのときはそのときということで。

 それから、思考の整理をつけているときの論理展開が大ざっぱだったり、過剰な認知の歪みが混ざっていたり、論旨不充分や考えることに疲れて話が尻切れトンボに終わったりする可能性が個人的に無視できないので、そのときは次回へ持ち越したり、もしも余力があれば気づいた箇所から訂正や注釈をしたい……といってもできるかな……? うっかり思いつめると精神ごりごり削れそう。といっても基本的に無理せず気が向いたときに書くつもりではある。

経験由来の一般化について

 最近気がついたことに、私自身は経験に由来する主張や見方を一般化することにかなりの抵抗感を覚えるというのがあった。

 ここで言う経験由来の一般化された主張や見方とは、広義の意味で言えば「(当人の)この経験から、人は誰もがみなこのようなことが当てはまる(Ⓐ)」という論調のことだ。強調部分が一般化の箇所を指す。語弊を避けるために具体的な例文を挙げるなら、「髪を染めている者ならばみな不良だ(①身体的特徴について)」とか、「日本人ならばみな勤勉である(②人種について)」とか、「特定の地域や環境にいる人間ならばみなこのような性格になっている(③地域性について)」とか、ともすればステレオタイプな認識や固定観念を生み出しかねないような見方を私は想定している。 *1

 しかし他方でこれらの主張は論調Ⓐの具体例としては非常に単純な形であり、想定として例示するには不適切ではないかという向きもあるだろう。その疑問はもっともではあるし、必ずしも①~③の例だけにかぎらず、ほかの場合もあるだろうと断ったとしても、私が逃れられないバイアスに囚われていて、わざわざ抵抗感を強く覚える具体例のみ提示している可能性も否定できない。

 ではなぜ私は仮にそこまで懸念していたとして、ことによると具体例を非常に単純な形としてしか出せないのだろうか? これは意外と簡単な説明が見つけられて、抵抗感を覚えるがゆえに頻繁に避けざるをえなくて、頻繁に避けざるをえないから具体例として出しうる引き出しが非常に少ないから、と理由を置けばひとまずの納得がいく。納得がいくからといって必ずしも妥当とはかぎらないが、さらにこの理由に対する「なぜ?」を敷衍させるためのエネルギーが残っていないのもあってとりあえずはこの線で仮定することにする。自己言及的な思考は余力がないとかなりしんどい……。

           *

 論調Ⓐのような見方をできるかぎり避けようとしているといっても、そういう意識的な努力をしてるから自分のことを殊勝だと思っているというよりは(というかそんなことは心底どうでもいいし、見当はずれですらある)、そうでもしないと精神的な抵抗感を受けつづけるので望む望まないにせよと避けざるをえないし、その気配が強い主張に出くわすと自然とそれに当てはまらない例外をできるかぎり考えたい欲求に駆られる、といったほうが私の実情に即している。だからといって、私がその論調のすべてを避けられているとはとても思えないし、もしかすると私自身も論調Ⓐのような主張をどこかでしているかもしれない。少なくとも私は、自分が避けたいとつねづね思っているからといって、必ずしも避けられるとはかぎらないと考えている。

 というか、私の根底的な考え方のひとつに「当人の体感や経験は必ずしも他者の体感や体験と共有されるとはかぎらないし、もしもそのタイミングがあったとしても共有しようとするかどうかの自己決定権は当人自身にゆだねられる」という持論があるので、それが論調Ⓐに含まれる「誰もがみな」というフレーズとしばしば対立してしまうんじゃないかと予想している。これについては考えがまとまったらくわしく話してみたい……といっても非常にむずかしそうではあるが……できるか……?

           *

 これまで私は論調Ⓐに対してネガティブな側面を強調して話したが、だからといってネガティブな側面ばかり話すのもどうかと思うので、次回か次々回にはポジティブな側面についてなるべく話せるようにしたい。とはいえ、自分が抵抗感を覚えるものについてポジティブな側面を考えるのは非常にしんどいものがある。非常にしんどいのだが、これは私にとって考えないままにしておくほうがかえって気がかりになるぐらいで、なにも論調Ⓐのすべてが私にとって抵抗感を覚えるわけでもなく、かつ論調Ⓐに当てはまる主張だからといって、それは必ずしも上記で示されたようなネガティブな側面だけ表すとはかぎらないと思うからだ。それに論調Ⓐでは言い切りの形だったが、それとは別に疑問形ではどれほど許容できるのかとか、そのあたり何が線引きになっているかというのも含めて考えをいい感じにひろげてみたい。

           *

 そういえば安部公房が偏見について興味深いことを書いていたので、それを引用して今回は結びにつなげたい。

 だからといって、偏見を正常化しようと言っているわけではない。そのひずみ、、、が微小であったり、また現実との衝突をおこさないような場合、誰もそういうものをとくに偏見とはよばない。偏見というのはそのひずみ、、、が蓄積され、現実との衝突が目立ってきたときに、はじめてつけられる名前である。微量なら薬だが、大量になれば、「毒薬」の黒いレッテルが貼られるというわけだ。偏見はたしかに毒薬の要素がある。
 要素はあるが、しかし偏見即毒薬と言いきってしまうこともできないのだ。ひずみ、、、が蓄積されて出来たエネルギーは、一方ではおそるべき思考の停滞、認識のステロタイプをうみだすが、同時に認識革命の原動力になるのである。作用と反作用は、切り離してばらばらに存在させることはできないのである。
 つまり偏見の克服とは、偏見をただむやみに否定することではなく、その正体を明るみにだし、正見との関係を法則的に把握して、その衝突からおこるエネルギーを制御し有効に利用することでなければならないのである。
安部公房「ヘビについて Ⅲ」『砂漠の思想』講談社文芸文庫 1993年 pp.27-28
一息で言えば

 結論。もちろん一般化された経験則を利用することもあるし、けっして参考にならないわけでもないが、だからといって私は必ずしも一般化された経験則を信用するわけではない(信用することもある)。

 今日はひとまずここまで。機会があればまた次回。力みすぎたのか疲れた……次はもっと力を抜く。

*1:これらの例示にはほかにジェンダーの話題も含まれると考えられるが、ここでは社会的なあれこれについて言及するのを目的としていないのと、考察がおろそかなまま上記のような経験についてのトピックとジェンダーを結びつけて話すことがはたして本当に妥当なのかをまだ判断しかねているので、留保を兼ねて割愛した。