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備忘録

説明と描写の違いについて考える

 本当はシンデレラガールズの記事を最初に書きたかったのですが、あまりにも完成の目処が立っておらずデロデロの状態が続いてるので、とりあえずは別で話していた文章についての話をある程度形を整えたものとして書き残すことでお茶を濁そうと思います。

 たとえ形を整えたとしても胡乱なものに変わりはないんですが、考察のなかで掻き分けられるところはなるべく掻き分ける、掻き分けきれないところはむやみに掻き分けたりしない、という方針で書いていきます。フィーリングを言語化して突き詰めていくのが一貫したスタンスです。今回は説明と描写をある基準でざっくり分けることを目標としながら、その違いをちょこちょこっと探っていきたいと思います。

用語の確認

 記述内で使っている言葉のブレをなるべく抑えるため、用語の定義を確認しながら話を進めていきます。まずは「説明」と「描写」の二語から。出典は『明鏡国語辞典』です。

描写:具体的イメージを伴うようなしかたで、対象を描き出すこと。特に、芸術作品として、知覚・認識した形態・情景・感情などを言語・絵画・音楽などによって具体的に表現すること。「心理ー」
説明:ある事柄の内容や意味を、相手によくわかるように述べること。「事情をーする」

 とまあ手元の辞書から引っ張ってきたわけなんですが、この定義を額面通りに解釈したときにいまから話す小説の文章、こと地の文にそのまま当てはめると意味がはみ出たり狭くなってしまうおそれがあるので、もう少し掘り下げながら最終的には言葉の定義を再配列します。

どのような基準でざっくり分けるのか

 文章を読んでいると、「この一文は説明っぽい」「ここの部分はほとんど描写に近い」ということが感覚で判別できるんですが、いざ「描写と説明の明確な違いは?」と聞かれると私は返答に窮します。おそらくすぐには答えられないでしょう。なぜなら描写と説明の性質は互いに対照的でもその線引き自体は曖昧で、はっきりと簡単に区別がつくものではないと私は考えてるからです。

 描写と説明のバランスをガラス棒の温度計にたとえれば、0度の部分を「説明」、100度の部分を「描写」というように設定すると、文章における30度(描写より説明の度合いが強い)の記述、もしくは80度(描写より説明の度合いが強い)の記述、さらには6度、52度、93度……といったふうに、だいたいの目安はつくものの厳密に分類するのは至難の技だと思います。

それでも何かしら判別の軸が欲しい

 そもそもなぜここまで気にするかというと、主に私が文章を書くときにどの記述を描写あるいは説明にするのか、考えているといつも藪の中をがむしゃらにかき分けているような気持ちになってくるので、せめて描写か説明をどのように書き分けるかという方針が必要だと思ったからです。

 さきほど描写と説明のバランスを「ガラス棒の温度計」とたとえましたが、ある文章における描写と説明の温度(二つの度合い)を示しているのならその示しているときの赤線(目印)自体を判別できる何らかの根拠が欲しいということです。というわけでその根拠をいまから設定します。

描写→語り手の「主観的な」記述、説明→(誰が読んでも同じような)「客観的な」記述へと分類する

 話に入る前に「客観的」「主観的」「主体」という言葉も辞書で引いてみます。

客観的:①主観または主体に関係なく、独立して存在するさま。「否定できないーな事実」②主観を離れ、誰もがそうだと納得できるような立場から物事をみるさま。「ーな意見を求める」
主観的:①対象についての認識・評価・判断などが個々の人間の意識の働きに基づいているさま。「ー観念論」②自分ひとりだけの見方・感じ方にとらわれているさま。「ーな考え」
主体:①性質・状態・作用などの主として、それを担うもの。特に、認識と行動の担い手として意志をもって行動し、その動作の影響を他に及ぼすもの。「認識のー」「行政権のーたる内閣」②物事を構成する際に中心となるもの。「写真をーとした雑誌」

 これについては定義そのままの意味で話を進めても特に問題はないと思います。ただ「主観的」②の意味はネガティブの方向に捉えがちなので、以後の内容では「客観的」は①と②の意味を含め、「主観的」と「主体」は①(≠②)のみの意味をベースにしながら話していきます。

 ここでいったん上で述べた「説明」の定義に立ち戻るのですが、「ある事柄の内容や意味を、相手によくわかるように述べること。」とはいったいどういうことなのでしょう。

「よくわかるように」って、あまり具体的ではない表現だと思います。話し方にもよりますが、よくわかるように説明するためには話すときに不十分な情報を限りなく減らす、つまり伝えるべき情報を過不足なく話すのが必要条件だと私は考えたので、以後は「よくわかるように」を「過不足なく」と置き換えて話を進めていきます。

 さらに、誰かに何かを説明するときは主観的あるいは客観的に話す方法がありますが、話している相手個人だけではなくより多くの相手に自分の状況を理解させるためには、なるべく誰が読んでも同じように感じる客観的(普遍的)な話し方が望ましいので、説明を説明たらしめているものは客観的な要素だと私は解釈し、「説明」を客観的な記述のグループへ分類しました。

 では、「描写」はどうなってくるのでしょうか。上述の定義によれば、「知覚・認識した形態・情景・感情などを言語・絵画・音楽などによって具体的に表現すること。」と書かれています。

 描写を具体的に表現するのは誰でしょう。それはもちろん語り手です。すると描写の中にある感覚・情景・感情などの記述はほかの誰でもない語り手に依存するということになります。

 描写が表現者のみに依存するということは、記述の表現はその表現者の意識に基づいてる(感じ方は誰でも同じではない・普遍的ではなく特殊的)ので、これは先述の「主観的」の定義に限りなく沿っています。よって、描写が描写らしくあるためには主観的な要素が入ってるのが必要条件だと私は解釈し、「描写」を主観的な記述のグループへ分類しました。

客観的・主観的な印象を生み出している要素は何か

 説明の表現は誰が読んでも同じように感じる過不足のない記述、対して描写の表現はその表現者自身の意識のみに基づいている(感じ方は誰でも同じではない・過不足があってもよい)記述とすれば、この二つの明確の違いは語り手が別の人物の主体に移り変わっても文脈も鑑みて記述が成立可能であるか否かが決め手になってくると考えられます。

 したがって、ある記述に対して語り手Aがたとえば主体などを変換して別の語り手Bへ交換可能であったらその記述は客観的、つまり説明的な傾向がある文章とみなしてよく、ある記述に対して語り手Aから別の語り手Bへ交換不可能であったらその記述は主観的、つまり描写的な傾向がある文章とみなしてもよいということです。

 描写は語り手の感覚・情景・感情などの意識に直接結びついているのでその表現自体も語り手固有のものになります。それは主体や主観を離れて独立しているもの(「客観的」①②の意味)ではなく、表現者に依存した個々のものになるためたとえ主体を変換しても記述や文脈としては成立不可能となります。

 私が地の文でSSを書くときは一人称視点がメインなのでこの話もだいぶ一人称視点よりの考えに沿っている……と思うのですが三人称視点に置き換えてもある程度は通用すると思います。

 そもそも小説は「誰の視点を通して何を記述するのか」が基本的な考え方なので、視点が移動したとしてもこの話の核が崩れることはそうそうないと思います。おそらく。しかしながら三人称視点についてはまだまだ私が模索している段階なので、何かわかったことがあれば加筆する予定です。

描写と説明を判別する具体例

 とまあ私なりの理屈をつらつら述べてみましたが、実際に文章へ適用してみないとしっくりこないと思います。というわけなので私が書いたSSの方から例を引っ張り出してみます。一作目の『双葉杏が掃除をする話』の冒頭より。

「たまには事務所の掃除でもするか」
 まどろみの中で聞こえたその言葉は、一分もかからずの至福のひとときを終わらせた。
「杏、掃除だ掃除。ちょっと起きてくれ。ほら、早く」
 軽く肩をつかまれ、左右に身体を揺さぶられる。突然のことでまだ意識が朦朧としている私は、そのままお気に入りのうさぎのクッションから冷たい床にぐでんと倒れた。

 引用の中から『まどろみの中で聞こえたその言葉は、一分もかからず私の至福のひとときを終わらせた。』という一文を抜き出します。このSSは一人称視点で書かれているので主体は双葉杏の「私」です。

 もともとの主体Aがまったく別の主体Bに交換可能であればこの一文は客観的・説明的な要素を含んでいるということになります。ためしに「私」を「プロデューサー」に置き換えてみます。

『まどろみの中で聞こえたその言葉は、一分もかからずプロデューサーの至福のひとときを終わらせた。』

 どうでしょう。前文の『たまには事務所の掃除でもするか』という会話文も考慮すれば、文脈が通っていません。というわけで、主体は交換不可能であり、この一文は描写的な要素を含んでいると判断できます。

 それからもうひとつ。抜き出した一文の中には『私の至福のひとときを終わらせた。』という語り手の感情が含んだ表現が入っていて、これも描写的・主観的な文章なのかを判別する要素になりえます。逆に言えば、客観的・説明的な文章には感覚・情景・感情などの語り手の意識に結びついた記述は入っていません。

 同作の中盤付近からも抜き出します。

「こんなもんかな」
 ひと通りやるべきことを終わらせたあと、私とプロデューサーは事務室の全体を遠目で眺めていた。
「あんまし変わってないね」
「だな」
  彼は私の言葉に頷く。
 まあ、掃除と言ってもやってたのは雑巾で色んな場所を適当に拭いてたのと、掃除機ウィンウィンかけてただけだしね。

『まあ、掃除と言ってもやってたのは雑巾で色んな場所を適当に拭いてたのと、掃除機ウィンウィンかけてただけだしね。』という一文を抜き出します。文の中に主語が入っていませんが、一人称視点のSSなので主体は語り手と同一です。

 明確な主語が書かれていませんが、ためしにこの一文の主体をまったく別の主体であるプロデューサーに置き換えてみます。つまり、プロデューサーが抜き出した一文とまったく同じことを言っていたとします。前文の文脈として、双葉杏とプロデューサーは一緒に掃除をしているという前提があります。

 すると、例文はプロデューサーが言っていたとしても文脈に違和感がありません。つまり主体が交換可能ということになり、この一文は説明的な要素を含んでいると判断できます。

 また、例文は口語にかなり近いですが、語り手の感覚・情景・感情などの記述は入っておらず、主語が書かれていないということはたとえ主体がなくても例文が独立して存在できるということになるため、これも客観的・説明的な文章なのかを判別する要素になりえます。

まとめ:描写と説明の定義の再配列

 いろいろと話しましたが、改めてここまでの話を踏まえたうえで描写と説明の定義を再配列していきます。

 描写:語り手の感覚・情景・感情などの意識に直接結びついている記述と表現。その表現自体も語り手の固有のものとなる。語り手の主観性と大きく関わっており、主体と独立して存在できない。

 説明:誰が読んでも同じように感じる過不足のない記述と表現。表現自体は普遍的であり表現者そのものには依存しない。つまり感覚・情景・感情などの語り手の意識に結びついたものは含まれていない。客観性と大きく関わっており、主体と独立して存在できる。

 あくまでこの判別方法は描写と説明の違いをざっくりと分けるものであり、厳密に違いを精査するということには向いてません。読む・書くときにある程度の指標になればいいという具合です。今回はうまくいきましたが、この方法を使ってもなかなか判断ができなかったり難しいということがそこそこあります。あるいはもともと描写と説明の割合が五分五分だったということも。何度も言いますが、ためす場合はざっくり判断でお願いします。

 ほかに何か気づいたことがあれば加筆修正する予定です。長々と書いてしまいましたが、ここまで読んでくださった方に大きな感謝を。