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備忘録

描写の距離感について考える

[……]脇が玄関の屋根で、それが家へ接続する所が羽目になっている。その羽目の中に蜂の巣があるらしい。虎斑の大きな太った蜂が天気さえよければ、朝から暮近くまで毎日忙しそうに働いていた。蜂は羽目のあわいから磨抜けて出ると、一ト先ず玄関の屋根に下りた。其処で羽根や触角を前足や後足で叮嚀に調えると、少し歩きまわる奴もあるが、直ぐ長い羽根を両方へしっかりと張ってぶーんと飛び立つ。飛立つと急に早くなって飛んで行く。植込みの八つ手の花が丁度咲きかけで蜂はそれに群っていた。自分は退屈すると、よく欄干から蜂の出入りを眺めていた。
志賀直哉小僧の神様・城の崎にて』新潮文庫 2005年 pp.29-30)

 簡潔明瞭な文体で知られる志賀直哉の短編『城の崎にて』の中で、描写の鮮やかさが顕著に出ているのはまずここだろう。この一節について少し話してみたい。

 距離感、この場合ではマクロとミクロの世界の対比という点で注目してみる。第一文で家の様子が語られている。そこに蜂の巣があることを二文目で知る。ここまでは詳しく書かれようと彼の視認できる風景で、マクロの世界にある。しかし、三文目から彼の眼のピントは急激に絞られ、世界の様相は一気に変わる。《虎斑の大きな太った蜂》という、模様や大きさまで判別できるミクロな対象へと描写が移る。

 さらに顕著なのはその後だ。蜂は羽目のあわいから出て来る。そして玄関で《触角を前足や後足で叮嚀に調え》る。蜂そのものだけでなく、蜂の足や触角の動きまで詳細に書かれている。彼の眼は緊張を保ちながら、蜂のミクロな世界を眺めつづける。蜂は羽根の付け根を震わせて花まで飛んで行く。逆に言えば、志賀直哉の眼がミクロの世界で生きていた蜂を、家や景色というマクロな世界にまで接続させ、ありありと浮かび上がらせる。

 この描写ばかりではない。ついで鼠についての描写がある。

[……]或所まで来ると橋だの岸だのに人が立って何か川の中の物を見ながら騒いでいた。それは大きな鼠を川へなげ込んでいるのを見ているのだ。鼠は一生懸命に泳いで逃げようとする。鼠には首の所に七寸ばかりの魚串が刺し貫してあった。頭の上に三寸程、咽頭の下に三寸程それが出ている。鼠は石垣へ這上がろうとする。子どもがニ三人、四十位の車夫が一人、それへ石を投げる。却々当らない。カチッカチッと石垣に当って跳ね返った。見物人は大声で笑った。鼠は石垣の間に漸く前足をかけた。然し這入ろうとすると魚串が直ぐにつかえた。そして又水に落ちる。鼠はどうかして助かろうとしている。顔の表情は人間にわからなかったが動作の表情に、それが一生懸命である事がよくわかった。
(Ibid., pp.31-32)

 志賀直哉は最初人の騒いでいる様子を《或所》で眺めているだけだ。ここでも視線は人の様子から鼠の動作にまでピントが絞られる。《或所》から眺めている彼は鼠の首にある魚串を仔細にとらえ、《鼠は石垣の間に漸く前足をかけた》のを凝視する。このとき彼の眼はまさしく顕微鏡のように機能している。人の様子というマクロな世界から鼠の様子というミクロな世界へ急激に接近する距離感の差が、彼の簡潔な文体とあいまって描写を明瞭に際立たせている。

[……]自分は踞んだまま、傍の小鞠程の石を取上げ、それを投げてやった。自分は別に蠑螈を狙わなかった。狙ってもとても当らない程、狙って投げる事の下手な自分はそれが当る事などは全く考えなかった。石はこツといってから流れに落ちた。石の音と同時に蠑螈は四寸程横へ飛んだように見えた。蠑螈は尻尾を反らし、高く上げた。自分はどうしたのかしら、と思って見ていた。最初石が当ったとは思わなかった。蠑螈の反らした尾が自然に静かに下りて来た。すると肘を張ったようにして傾斜に堪えて、前へついていた両の前足の指が内へまくれ込むと、蠑螈は力なく前へのめって了った。尾は全く石についた。もう動かない。蠑螈は死んで了った。
(Ibid., p.35-36)

 ダメ押しにもう一節引いてみる。まるで昼間に見てそのままはっきりと書いたような描写だが、場面は薄暗い夕方だ。何気なく川の流れを眺めていた志賀直哉は蠑螈を見つけて驚かそうと石を投げた。彼の眼は石の軌道に沿って急激にピントが絞られる。薄暗い川べりで蠑螈の尾や指までもが見える。景色というマクロと蠑螈というミクロの世界の距離感の差が激しいほど、描写による彼の眼と蠑螈の距離は限りなく接近する。彼の眼には蠑螈をはじめとした微細の鮮明と躍動しか映っていない。この瞬間、彼の眼は非人間的な精度で蠑螈の死をとらえる。

 距離感が強調されるほど、描写は平面的ではなくなり、対象には奥行きという襞が生まれる。描写による立体感は先天的に表現できるわけではない。何がどこにあるのか、あるいはどこになくてはいけないのかという空間の感覚をきめこまかく検討しなければならない。さらに言ってしまえば、具体的な描写によって配置された対象たちが、それぞれ「変化の可能性」という想像の余地に包まれることではじめて物や生物としての様相を保つ。

 もちろんこれは「変化しない」という可能性も含まれる。しかし同様に「変化する」という可能性も対等に含まれるだろう。石を投げられる直前の蠑螈は生きていたかもしれなかったし、あるいは石に当たらなかったかもしれない。死んだ蠑螈はそのまま石の上で横たわりつづけるかもしれないし、何かのきっかけで川に流されるかもしれない。蠑螈の様相そのものに可能性を発見するのではなく、「変化の可能性」が蠑螈にまとわりついているのを発見する。このとき、蠑螈は描写の対象であると同時に次の可能性のための媒体である。

[……]私は微かな好奇心と一種馴染の気持から彼等を殺したりはしなかった。また夏の頃のように猛だけしい蝿取り蜘蛛がやって来るのでもなかった。そうした外敵からは彼等は安全であったと云えるのである。しかし毎日大抵二匹ずつほどの彼等がなくなって行った。それはほかでもない。牛乳の壜である。私は自分の飲みっ放しを日なたのなかへ置いておく。すると毎日決ったようにそのなかへはいって出られない奴が出来た。壜の内側を身体の附着した牛乳を引き摺りながらのぼって来るのであるが、力のない彼等はどうしても中途で落ちてしまう。私は時どきそれを眺めていたりしたが、こちらが「もう落ちる時分だ」と思う頃、蠅も「ああ、もう落ちそうだ」という風に動かなくなる。そして案の定落ちてしまう。それは見ていて決して残酷でなくはなかった。しかしそれを助けてやるという私の倦怠からは起ってこない。
梶井基次郎檸檬新潮文庫 2003年 p.214)

 梶井基次郎の短編『冬の蠅』から一節を引いてもう少し話してみる。着目点はやはり「距離感」だ。しかしだからといって前の志賀直哉と共通した話が保証されるわけでもない。ただ設定する出発点のみが同じにすぎない。

 梶井基次郎の眼には彼自身の情感が多分に含まれている。彼の眼と蠅のあいだには情感を媒介とした心理的な距離感がある。彼が蠅を凝視しているとき、彼の情感は蠅と近づいたり離れたりする。《私は時どきそれを眺めていたりしたが、こちらが「もう落ちる時分だ」と思う頃、蠅も「ああ、もう落ちそうだ」という風に動かなくなる。》の通り、彼の眼はマクロからミクロの世界にピントを急激に絞る代わりに、彼自身の情感を蠅と急接近させる。牛乳壜でもがく蠅と彼の情感は一体化している。

 しかし次の瞬間には彼は蠅を助けることに関心を持とうとしない。《それを助けてやるという私の倦怠からは起ってこない》のだ。このとき彼の情感は蠅から離れ、ふたたび彼自身の心境へと戻ってゆく。彼の眼が対象へピントを絞るとき、彼自身の情感も連動して対象へと接近する。そしてこの場合、蠅の変化に応じて彼の情感の距離感も変化する。

 崩れかけた煉瓦の街。その狭い通りには、黒い着物を袖長に着た支那人の群れが、海底の昆布のようにぞろり満ちて淀んでいた。乞食らは小石を敷きつめた道の上に蹲っていた。彼らの頭の上の店頭には、魚の気胞や、血の滴った鯉の胴切りが下っている。そのまた横の果物屋には、マンゴやバナナが盛り上ったまま、鋪道の上にまで溢れていた。果物屋の横には豚屋がある。皮を剝れた無数の豚は、爪を垂れ下げたまま、肉色の洞穴を造ってうす暗く窪んでいる。そのぎっしり詰まった豚の壁の奥底からは、一点の白い時計の台盤だけが、眼のように光っていた。
横光利一『上海』岩波文庫 p.11-12)

 新感覚派の作家で知られる横光利一の表現は、《対象そのものをリアリスティックに追求し表現するにふさわしい文章でなく、対象から触発された感覚や心理やイメージを知的に再構成し動的な新鮮な感覚的表現をつくりだすこと自体を目的とするところの新感覚派の文章(前掲書 小田切秀雄解説 p.318)》に支えられている。ここでも「距離感」に着目してみる。何と何が近くなり、あるいは離れるのか、距離感の変化によって何が見えてくるのか、関心はそれだけしかない。

 横光利一の眼が向けられるとき、そこには彼自身の感覚が対象に接近している。しかし彼はただ感覚的であるわけではない。比喩や隠喩を使って別の現実的感覚を表現する。お互いに関係のないような二つが、彼の手によって一つのものにまとまる。人の群れは海底の昆布のようでもあり、海底の昆布は人の群れのようでもある。皮を剝れた無数の豚は己の身体で肉色の洞穴という新しい場所を造る。彼の表現によって切り開かれた新しい感覚や新しい場所はやがて別の現実をつくりだす。レトリックの対象たちは彼によってその距離感をゼロにする。対象の距離感が変化すると、新しい現実を感じ取れるようになる。このとき、彼の眼で凝視されたものを媒体として二つの現実のイメージが綯い交ぜになり、新感覚が浮き彫りになる。

 俯いた眼を上げて雨に煙る街を見た。醜く焼けただれた街がひらけている。空襲のため僅かに外廓ばかりが焼け焦げて残っている灰色のビルジング、蒼ざめた内部の壁を見せた半壊の建物、ところどころ建築資材を積み重ねてある空地。畑にしようとする人もないと見えて、空地には雑草が雨に煙ってよく見えない。人の姿一つないこの荒涼とした風景の中を、高架線を走る電車の音が、ときどきやるせなげに聞えて来る。この風景は、天気のいいよく晴れた日でも、やはり寒々とした精神の衰えを感じさせるのだ。まったくの廃墟だ。この廃墟にはまだ春が来ない。永遠に春が来ないように見える。今日のように雨の降っている日には尚更だ。だから雨の降る日は大嫌いなのだ。僕は窓を閉めようとして、鉄の把手を握った。
福永武彦『塔』河出文庫 p.46-47)

 最後に福永武彦の短編集『塔』に収録されている『雨』の一節を引いて話してみたい。彼が街を眺めているとき、彼と街のあいだには水のイメージと「僕」自身の情感が存在する。しかしこの文章全体に流れている隔世感を見逃してはならない。灰色のビルジング、半壊の建物、雨に煙った空地はどれも戦争によって激しい変化が起きた跡をあらわしている。それらは「僕」自身の情感と対応している。そして全体を雨という水のイメージが包み込んでいる。彼の眼が見つめる景色のピントを絞れば絞るほど、彼自身の持つ隔世感が強まる。「僕」の見ている世界はすでに変わってしまっている。変わってしまった世界は次の変化が訪れるかどうかさえもわからない状態にある。「僕」は街の変化との隔絶を自覚し、それによって彼の持つ叙情性が高まる。したがって彼の対象との隔絶がより彼と対象との絆を強くする。彼にとって街との距離感は物理的な変化と心理的な変化とで対立しているが、対立しているがゆえに成立している。

 以上、自分の好きな作家の文章を取り上げて色々話してみました。これを機に作家の興味を持っていただけるのなら幸いの限りです。