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Reminder / ToDo

20250324 なんのために生きるか

 特に意識しなくても(ときには妄想によって)物事に多くの意味を見出してしまう私だが、それでも「なんのために生きるか」という問いに対して正当な根拠づけは見出さないようにしている。

 なぜか。理由はシンプルである。生きるための根拠づけが明確であればあるほど、その根拠づけによって死ぬ理由にさえなるからである。ともすれば人を殺す理由にさえなると私は考えている。

 卑近な例で言えば、お金のために生きるとする。お金のために生きるなら、簡単には返せないほどの莫大な借金は首を吊る立派な理由になりうるし、金銭トラブルは関係者を殺す明確な動機にすらなりうる。

 お金のために生きることはたいていの人間がうっすら根拠づけしている(というよりも根拠づけを否定しづらい)と思うので、もうひとつ例を挙げる。たとえば、人類の幸福のためという壮大な目的はどうだろうか。

 もしも偉大な宗教家や哲学者がこのような生きるための目的を細部まで明確に根拠付けを行ったとする。

 人類は、もしくは賛同者たちは幸福になれるのだろうか? 私はそうは思わない。なぜなら、その幸福の目的が追求されればされるほど、あらゆることが劣位におかれ、その劣位によって幸福が遂行されると賛同者たちがいずれ考えるようになる、と私は思うからである。たとえば、その幸福について肯んじない者に対して、嘲笑によって、差別によって、殺人によって、幸福が正当化される。

 べつに人類の幸福を考えてはいけないという話ではない。消えない苦悩が起きうる人間の存在を一般化してはいけないという話でもない。ただ単に、他人の生きる理由まで頼んでないのに勝手に一般化と根拠づけまでして押しつけるなという話なだけである。そもそも生きることそのものに論理関係を持ち込み、ことによっては手段と目的が逆転しうる主従関係を築こうとするのは正直気に食わない。

 私は最初、「『なんのために生きるか』という問いに対して正当の根拠づけはしていない」と語った。ではどういう根拠づけを行っているのか?

 簡単である。「生きるがゆえに生きる」という論理が破綻したトートロジーの根拠づけを採用しているだけである。そもそも生きることは辻褄が合わないものなのだから、辻褄が合わない鋳型には辻褄が合わない内容を流し込むのが合理的判断だと私は考える。

 生きるための根拠づけが論理的に破綻していれば、もし生きることが破綻しそうになっていても「そもそも生は破綻しているものなんだ」と受容できる。

 仮に「生きるがゆえに」という根拠づけがより明確になったからといって、自殺しようとしたり人を殺そうとする場合には「論理的に破綻している」と合理的判断を下せるので、そもそもそのような手段を正当化することはできない。

 一方でまがりなりにも生きることそのものに論理関係を持ち込んでいるが、間違いがあって主従関係が逆転したとしてもトートロジーなので実際にはなにも変わらない。我ながら良いアイデアだと思っているのだが、実際どうなのだろう? どう思うかはこれを読んでいる読み手の方々に任せたいと思う。以上日記でした。