題の通りです。生きることは抗うことという妄執に取り憑かれたあげく頭の関節が外れてしまった私の生はすでにこの世界を通り抜けてしまった。メーデー、こちら霊界から通信しています。聞き取れますか? 過剰になりすぎた生の力ってこんなこともありえるんだ。冗談はともかく、どうやら生きることとは抗うことだけではないらしい。私は来し方を振り返るように、もしくは繋ぎ留めておいた命綱をたぐり寄せるようにあくせくと来た道を戻ろうとしている。
現在の近況を整理ついでに報告すると、仕事が決まったので1/6(月)から稼働することになる。いままで手をつけてなかったスト6に触りはじめる(格ゲーはなかなかむずかしい)。詩が読めるようになったので自分でも詩を書きはじめる。プログラミングが楽しいから競プロにも挑戦しようと考える。ようやく自分の小説の書き方がつかめた感じがする。むずかしい本でも読みやすく感じられるようになる。その他諸々。
私の頭の中は依然としてうるさいのだろうか? 最近はだいぶ自分の頭の聴き方というものがわかってきて、それを慣らすためにジャンル問わず音楽を聴いているのだけど、聴きようによってはワーグナーの『ヴァルキューレの騎行』(カラヤン指揮)やドビュッシーの『夢想』(モニク・アース演奏)にも聞こえるから不思議だ。つまり、うるさかった声(もしくは金切り声によるぎすぎすした悪意の交響曲)の聴き方というものがわかってきたので、それに気づいた私が自分でまとめられるようになったというのが正しい。私は落っことした頭の指揮棒を拾い上げることができたのだ。
私はけして冗談を語っているわけでも空想でものを語っているわけでもない。音楽は頭に鳴り響かせるものだが、もともと頭の中で何かが鳴り響いてるのだとしたら、それにはかならず固有の鳴り響き方というものがある。その鳴り響き方がどんなふうになっているのかをすり合わせるためにいろいろな音楽を聴く必要があるというだけの話だ。そのアウトプットを音として魅力的に表現できる人間が偉大な作曲者や演奏者になる。
就寝前、私のように頭の中がうるさくて困っている人に向けて話すなら、その声や言葉が誰から響いているのかを特定し、自分の言葉と対話させることだ。もしかしたら、そのだれかの言葉は容赦のない悪意や侮蔑を水々しくぶつけてくるだろう。
しかし、その言葉に対し自分なりの真摯な対応を行いつづけていれば、その人の声はいずれ凪いだように聞こえなくなる。つまり、聞こえなくなるまで対話を行えばよろしい。ただ、どれほどそれが続くのかは察するに余りあるから、最初は自分のできる範囲でやっていただいてかまわない。
前掲の記事の話でもしよう。依然として私の生きる態度は変わらず、むしろ強化された。ただ世界の様態だけがあるとするなら、べつに私からなにか世界へ期待を向ける必要もないし、そうする理由もない。つまり、私だけが間違っていたとしても、極悪人として罰されるとしても、むごたらしく凌辱されるとしても、かけがいのないほど惨めだとしても、一生つまはじき者のまま生きるとしても、それが何の問題になる? 私はもうわからなくなってしまったし、生きているならすべてこのままでよろしいと考えている。むしろ、おのれの生の惨めさなど恋人の髪を撫でつけるように存分に堪能してみたいところだ。
私は自分の生を賭け金として出したが、いくらかの取り分はどうやら返ってきたみたいだ。というわけで、もっと賭けてみたい、楽しんでみたい、気持ちよくなりたい! 生きるってすばらしいことなんだね。私は《ほっと息がつける》 *1 ものをおまけで手に入れてしまったものだから、次はなにを手に入れたらいいか気分がとてもよくなっている。
もしも生まれ落ちたことが罪で生き残ることが罰 *2 だとするなら、生きているだけの人間がつくった罪や罰の重さなどたかが知れているだろう。なぜなら生という原罪の重さにはとてもかなわないからな。窃盗、脅迫、放火、堕胎(堕胎するのは本当に女性だけにかぎられるのだろうか?)、強姦(もちろん本来ならば強姦でも男性や女性など問わずだれでも平等に行われるはずなのだが、行われないものだからこの世界はどこかおかしい)、殺人、それらに対する罰金刑、勾留刑、禁固刑、懲役刑、死刑などがあるが、罪を犯した当人が生まれてさえいなければそもそもこんなことにはならない。
そもそも、生まれながらの罪人がみずからの罪状も知らない無垢な白い花のような顔つきをしているというのに、同じ人間に向かって生きてるときの罪や罰を突きつけているだなんて笑い飛ばしたくなるほどの粋なジョークじゃないか。この世界の辻褄の合わなさに耐えられず生まれてしまったことをまぎらわすために法律が考案されたのだとしたら、だいぶ辻褄が合うんじゃないか? 生の重さや惨めさに耐えかねた人間が苦しまぎれに思いついた罪と罰というものは、恐怖よりむしろ柔らかな唇から溢れた慈悲であり慰めなのだ。
そういうわけで、俺が生まれてしまったのはぜんぶ俺のせいなのだ。生という原罪に対して生きていく責任を真摯に語るつもりなら、「自分が生まれてしまったのは自分の責任である」というラディカルな語り方でしかありえない。誰も自分の生の責任を取ってくれないなら、それこそ椅子取りゲームのようにはやく座ってみたもの勝ちなんじゃないかな。おんぼろな椅子でも居座りながらわが命の玉座にしてみようじゃないか。最晩年のニーチェの語る通り、《誤謬(──理想が存在すると信じ込むこと──)とは盲目のことではない。誤謬とは怯懦ということなのだ》 *3
考える問題はずっとシンプルになった。わたしが世界に耐えうるかどうかではなく、わたしがわたしに耐えうるかどうかに変わったのだ。というわけで、私の試練は現在でもつづいている。暇なときはヤコブの手紙 1:12-14 *4 でものぞいてみようかな? わたしはいきることがすきですきでたまらない。
そして神に向かってこう伝える。天国や来世など謹んでお断り申し上げる。たった一度かぎりの生でよろしい。
*1:《でも、仕方がないわ、生きていかなければ! (間)ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命がわたしたちにくだす試みを、辛抱づよく、じっとこらえて行きましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。そして、やがてその時が来たら、素直に死んで行きましょうね。あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなにつらい一生を送って来たか、それを残らず申上げましょうね。すると神さまは、まあ気の毒に、と思ってくださる。その時こそ伯父さん、ねえ伯父さん、あなたにも私にも、明るい、すばらしい、なんとも言えない生活がひらけて、まあ嬉しい! と、思わず声をあげるのよ。そして現在の不仕合せな暮しを、なつかしく、ほほえましく振返って、私たち──ほっと息がつけるんだわ。わたし、ほんとにそう思うの、伯父さん。心底から、燃えるように、焼けつくように、私そう思うの。……(伯父の前に膝をついて頭を相手の両手にあずけながら、精根つきた声で)ほっと息がつけるんだわ!》
(アントン・チェーホフ著, 神西清訳『かもめ・ワーニャ伯父さん』新潮文庫, 1967年, pp.238-239)
*2:《生まれ落ちた罪生き残る罰/私という存在》Buzy『鯨』[Song, 2006]
*3:フリードリッヒ・ニーチェ著, 川原栄峰訳『ニーチェ全集15 この人を見よ/自伝集』(ちくま学芸文庫, 1994年, p.16)
*4:《試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである》
(ヤコブの手紙 1:12-14 Colloquial Japanese, 1955)