道踏み迷うたぞ なんとしょう? *1
ちょうど頼んでいたのが朝届いたので今日から不定期でアルカナリーディングをおこなう。急務なのは、先に読んでいくべきなのは大アルカナの《愚者》 *2 か、または《吊るされた男》 *3 なのかということだ。
順序立てて前から後から、それとも前回から後回し? こういう場合は、自分で選ぶより他人に選んだもらったほうがよろしい。
家族 *4 に頼んでもらって好きな絵柄を選んでもらう。選ばれたのは《愚者》だった。《吊るされた男》は首綱かかえて後回し!
ひとまずは観点を整理しよう。今の私が《愚者》のどの点に目をつけたいのか、つけることができるのか、またはつけるべきかで、今の私の精神状態とこれからの私がこの文章を読み返す際の反省点にもなってくる。読み直すべきものが私に嘯いたテクストを私が聴き直すことによって、これからの私は生き直せる! それにしても、自分の地図をつとに自分でつくろうとするのはなかなか気苦労なことだ。
タロットカードは執拗に私を騙そうとしてくるが、すでに私は騙されることに了承している。私がもっと騙しがいのある嘘をクラッカーのように鳴らすのだから。たわいなく人は騙し騙され溜息まみれ。
まずは認めなければならない。認識における確認の時間だ。
もしかしたら「したためないと」いけない? 然り。私はなんとか書き記そうとしているし、あやうく書き記されそうになる。
タロットカードの解説文に向かって目でなぞっていく。以下本文の引用。
崖の上に立った若者が、白い太陽に照らされ、白いバラを持ち、白い犬を連れています。白は汚れなき純真さ、無垢を象徴する色です。
彼は赤い羽の付いた月桂樹の帽子を被り、花模様と緑の葉の飾られた服を身に付けています。
若者つまり若さは未熟さを表しています。彼は、目の前に崖があることには気付いていない様子で、あと一歩踏み出せば、転落するのは明らかです。
しかし、彼はそんなことは気にしておらず、天を仰いでいるようにも見えます。
永遠の旅人、永遠の少年のカードです。周りを気にせず、自由に、これから新しいことが始まりそうな無限の可能性が広がっています。
Elaeagnus タロットカード78枚『タロットカードのお使い方』
正位置なのか逆位置なのか(To be, or not to be *5)、それが問題だ。
私は思い出そうとする。家族にこのカードを選んでもらったとき、選ばれるカードが私から見て正位置であることを私は疑わなかった。また、家族も逆位置でこのカードを選んだことを疑わなかった。
つまりこういうことなのだろう。私から見て私は正位置、家族もとい他人から見て私は逆位置であると。
いったいどちらが正解? どちらも読んでいけばいいだけの話。読み物が増えただけの話。
まずは正位置について語らってみてはいかが。私から見て正位置ということは、私をとりまく私の状況を表していると言えるだろう。
ちょっと待った! 「だろう」だって? それはあまりに早計な判断じゃないか? もしかしたら「かもしれない」ではない「だろう」か? いずれにせよ、あんまり判断が遅いと日が暮れるというのに!
ここは私がそう「思いたい」で手を打たないか。もしかしたらそう感じることが「できる」なのかもしれないが!
それは書いてのお楽しみ。お頼みの綱で首を吊る御託はいいからなだらかな道をくだってドライブ気分で解釈をはじめよう。《愚者》を真近で覗こうとする。もしかしたら深みから覗かれているのは私かもしれません。
- 目に入ったもの。若者。天を仰ぐ顔。山脈の青さは最初波の高さだと勘違いしていたこと。
- 思い起こされるもの。どこまでも盤石な崖。若者についていきたいのに忠告気どりの白い犬。宙ばかり見てて視線の締まりがない顔。
肉体の眼球でも魂の眼球でも私は見て取った。つまり身体的にも精神的にも確認できたということだ。もうこのくらいでいいだろう。もしかすると読み取りすぎなくらいだ。考えすぎは肩こりのもとにちがいない!
先ほど書かれた解説文と以下に引用する正位置のキーワードと私の表象 *6とを照らし合わせようとする。正位置のキーワードを書き起こしながら、何かを私は考えようとする。
浪費 陶酔 興奮状態 冒険 独創的 新たなスタート 大らか リスクを侵す 気楽 純粋 天真爛漫 未熟 初心者 無限の可能性 型にはまらない 無邪気 発想力 自由 とらわれない いまだ何者にもなっていない 危うさ
なるほど。キーワードのおかげで私の解釈がだいぶ楽になった気がする。それでは書き表してみようじゃないか。落ち着いて、堕ち着いて。思いの向くままに、思いの無垢ままに。
まず私は、挑発的だ。それもわかってて挑発している。私の魂は成熟しているというよりかは永遠に未熟だし、愚かにもいいかげんな墨付けに興じながら持ち慣れない太い筆で取り返しのつかない書き間違いを何度も行っている。実をいうと、それがすごく楽しくてしょうがない。
間違えたとて、それが何の《問題》になる? 気にせず直せばいいだけのこと。直す方向など特に決まってもいないし、こだわりがあるならそれで決めてしまうのがいい。ゆっくり時間をかけて直してもいいし、すぐ直してみてもいい。
気にすることは魂のしこりである。しこりが増えるだけ、しごく疲れるだけだ。魂に挟んでおくのは栞だけでよろしい。
最初は山脈の青さを波の高さだと勘違いしていた。高い波が自分に押し寄せてくると考えていたのだ。それが勘違いであり実は立ちはだかるだけの山脈だったということは、押し寄せて巻き込まれないぶん高い波よりはずっと安全ということになるし、病的な私は高山の澄みきった空気 *7 をただ楽しんでいるだけということになる。私は押しよせる妄執をやさしく押しやったのだろうか? まだ、崖から下りる気にはなれない。
ほかには何も書くことがないかもしれない。私は語りきったかもしれないし、語りそこねたかもしれない。とりあえず、2024年12月4日時点で私が《愚者》の正位置について書けるだけのことは書いた。
次は逆位置のキーワードを書き起こそうとする。退屈に感じられるかもしれないがやらねばならないことに充足感を覚えてるかもしれない自分がいる。いつ書き終わるのかと時間をたしかめる自分がいる。ここまでの文章を読み直そうとする自分がいる。『きゅんっ!ヴァンパイアガール』 *8 を楽しく聴いている自分がいる。あなたを惑わすつもりではけしてない。ただそうしているだけのこと。あるがままだけのこと!
怠慢 欠如 無鉄砲 不注意 虚無 虚栄心 熱狂 無分別 未熟 愚か 騙されやすい 無責任 衝動的 足もとに注意 経験不足 無計画 軽率 自暴自棄 地に足がついていない
私は自分の気もちに逆らえない。希望が持てないから当たり前だろう。なればこそ気の持ちよう。
蚕の細い絹で下品に撚られた感情が何の役に立つのか。いくらかの慰めにもならないが、回顧するたび燃焼はするかもしれない。
私には燦然とした伽藍堂 *9 の虚栄心しかない。いつかそれは崩れる? いいえ絶対に瓦解したりしない。底抜けに粗目立ちはするかもしれないけれど……。そんなときは特急で肌のように柔らかい寝台に倒れたらいい。われら魂の神殿から商人を追い払いたまえ! *10
きみのすべてを喰らうまで 絶叫
*11
おもむろにみな立ち上がって 斉唱
死者にブーケを投げまくって 黙祷
飽きた もうここまででいい
*12
もう満足してしまったので(満足は生死よりも価値がある *13 )、とりあえず2024年12月4日時点で私の《愚者》の逆位置についての解釈はこんな感じということで。
ここまで辛抱づよく読んでいただいた皆さん、本当に、本当にありがとうございました。 *14 今日までのあなたは充分耐え忍んだのだから、今のうちにヤコブの手紙 1:12-14 *15 でものぞいてみたらいい。
*1:フョードル・ドストエフスキー著, 江川卓訳『悪霊』(新潮文庫, 2004年)上巻のエピグラフにあるプーシキンの同名詩『悪霊』より。「悪霊」という言葉が採られた由来にもなったルカによる福音書 8:32-36もご確認あれ。
*5:
このまま生きるかそうでないか、それが疑問だ。
どちらがましだ、
むごい宿命が投げつける矢弾をあびながら苦しみを湛え気高さを抱えるか、
それとも苦難の海を端まで力づよくかき分けるか。
Hamlet, Act III, Scene I[筆者訳]
*6:《「世界は私の表象 Vorstellung である」──
これは、生きて、認識をいとなむものすべてに関して当てはまるひとつの真理である。ところがこの真理を、反省的に、ならびに抽象的に真理として意識できるのはもっぱら人間だけである。人間がこれをほんとうに意識するとして、そのときに人間には、哲学的思慮が芽生えはじめているのである。哲学的思慮が芽生えたあかつきに、人間にとって明らかになり、確かになってくるのは、人間は太陽も知らないし大地も知らないこと、人間が知っているのはいつもただ太陽を見る眼にすぎず、大地を感じる手にすぎないこと、人間を取り巻いてる世界はただ表象として存在するにすぎないということ、すなわち世界は、世界とは別のもの、人間自身であるところの表象する当のもの、ひとえにそれとの関係において存在するにすぎないことである。──》
ショーペンハウアー著, 西尾幹二訳『意志と表象としての世界Ⅰ』(中公クラシックス, 2004年, p.5)第一節より。
*7:《──私の著書の空気を吸うことができる人なら、それが高山の空気であり、 強烈な 空気であることを知っているはずだ。この空気を吸うためには、それ相当の資質を備えていなければならない。そうでないと、この空気に包まれて風邪を引く危険は決して小さくはない。氷は近い、孤独はぞっとするほどひどい──だが、なんと静かに万物は光の中に横たわっていることか! なんと自由に呼吸できることか! なんと多くのものが自分の下に あるように感じられることか!》
フリードリッヒ・ニーチェ著, 川原栄峰訳『ニーチェ全集15 この人を見よ/自伝集』(ちくま学芸文庫, 1994年, p.15)
*8:「アイドルマスター ミリオンライブ! シアターデイズ」ゲーム内楽曲『きゅんっ!ヴァンパイアガール』MV
もしこの動画が気に入られた方がおられましたらよろしければ本家の『きゅんっ!ヴァンパイアガール』もどうぞ。
*9:《あーでも言葉だって/たくさん覚えたんだ/伽藍堂よりはマシさ/だってそうだろう》PEOPLE 1『怪獣』[Song, 2021]
*10:《さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上られた。そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が、わたしを食いつくすであろう」と書いてあることを思い出した。そこで、ユダヤ人はイエスに言った、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか」。イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。過越の祭の間、イエスがエルサレムに滞在しておられたとき、多くの人々は、その行われたしるしを見て、イエスの名を信じた。しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。それは、すべての人を知っておられ、また人についてあかしする者を、必要とされなかったからである。それは、ご自身人の心の中にあることを知っておられたからである》
(ヨハネによる福音書 2:13-25 Colloquial Japanese, 1955)
*11:DECO*27作詞作曲『ヴァンパイア』[Song, 2021](『MANNEQUIN』[Song, 2024] 1番目に収録)
*12:《てか長続きする気がしない/とかそんな性格でなにが悪い》Chelmico『Easy Breezy』[Song, 2020]
*13:
青年 じゃ、その問題ってのは何なんです?
老人 人間をある行動に促す衝動ということ──つまり、人間にあることをさせる唯一無二の衝動って奴だな。
青年 唯一無二ですって! じゃ、たった一つしかないんですか?
老人 そう、それがすべて。唯一無二なんだ。
青年 なるほど、ずいぶん奇妙な説ですねえ。じゃ、その人間を行動に駆り立てる唯一無二の衝動ってのは、いったい何なんです?
老人 つまり、自分の心の満足がえたいという衝動──自分自身の心の満足感をえて、いわばその裁可をえなければならぬという必要だな。
青年 とんでもない、そんなのだめですよ!
老人 なぜだね?
マーク・トウェイン著, 中野好夫訳『人間とは何か』(岩波文庫, 1973年, pp.24-25)
*14:『ドラッグオンドラグーン』(ディレクター:ヨコオタロウ)[Game, 2003] Eエンドより。
*15:《試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである》
(ヤコブの手紙 1:12-14 Colloquial Japanese, 1955)