Idle mode

備忘録

絶対に社会に適応したくない

 統合失調症の発症から強制入院され地面を這いつくばりながら生還(寛解)し、転職に成功してから半年が経とうとしているが、改めていかに自分がこの社会に向いてないか、そして社会に期待を抱いていないかを痛感したので、もう全部やめにしたい。

 頭の中の声がうるさい。これは決して症状の意味ではなく、生来の癖であらゆる物事に対して刺々しい批判的思考が滑り寄ってきて、さらには結論がすぐに出ないものだから(もしくは永遠に出ない)、意味のない問いばかり浮かんできて心底嫌になる。私にとっての批判的思考はより良い結論を導いたり本質を見抜こうとするというよりかは、もはや常に空回りして極端な結論を導き出そうとする懐疑的思考になってしまっている。だからといって物事のありのままを受け取るようにはできていないので、手綱をうまく握れずブレーキも壊れかかっているこの思考と一生付き合っていくしかない。そのことが私を絶望させるには充分すぎるので、もう全部やめにしたい。要するに私はこの世界に対しても自分自身に対しても絶望している。絶望して、心底疲れているし、己が身を預けられる場所を見つけようとする意欲もすべもない。

 この世界にも自分自身にも絶望した人間が行き着く先は一体どこなのか? 私はそれを死だとは断言しないけれど、間違いなく生死の潮目に両手を浸すということは想像できる。だから最近の自分が生きるか死ぬかを考えていることを感じる。いまの自分が生きている中でもっとも苛烈になっているのを感じる。もっと穏やかになりたいと感じる。一方ですべてが穏やかになって凪いでいればそれで全部解決するのだろうかとも感じる。そして私はこう思う。解決はしないが進行はする。進行している以上、後戻りはできない。

 自分がじりじりと追い詰められていってるのがわかる。しかし私はそのことを問題にしようとはしない。一度信用を失った人間がそれまでの付き合いを取り戻すことができないように、ただ生きているというだけでなぜこの世界を信用し続けないといけないのか? なぜ「この世界で生きているならそれだけで世界の過去や未来、もしくはあれこれに期待せよ」と強要されないといけないのか? なぜ世界や社会への信用と生きていくことが両指の腹を合わせるように密接に関わっていないといけないのか? そんなことばかり考え続けている。

 たとえこの世界が現在よりずっと良くなったとして、もしくはずっと悪くなったとしても、私はこの世界に対する不信感を決して崩さないし、崩せない。だから私は自分なりに世界をより良くしようとは考えないし、ましてより悪くしようとも思わないし、寄せ合う肌のように密着してくるこの世界をできるだけ自分から遠ざけようとするだろう。そもそも世界に対する態度の最終決定権はこの私にあり、触発されるのはあるとしてもそれは誰かが侵犯していいものではない。

 私はもう間違っているのはこの世界なのかそれとも自分なのかという問題について関心がない。世界が間違っているからといって自分が正しいとは限らないし、また自分が間違っているからといって自分の実感である苦しさや怒りまで否定する必要はない。だから自分の取り巻く状況を自分と世界という二項対立に当て嵌めないほうがいいし、その理由もないという結論が自分の中ですでに出ている。だから私の中ではこの世界は救う必要もなく、罰する理由もなく、間違っておらず、正しくもなく、良くもなければ悪くもない。ただ様態だけがそこにある。これがニヒリズムかどうかはわからないが、現在の私はこう考えている。もしかしたら未来の私の考え方はもっと違っているかもしれないが。

 忘れてはいけないのは、世界を疎めば自然と世界から疎まれることだろう。眼差しを向ければ見つめ返されるように、たとえこの世界を憎んだとして私は憎み続ける主体の立場だけにいることはできない。世界に憎悪を向ければ、世界はその個人に対して憎悪を返してくるとさえ考えている。だから必要なのはその視線を向けられる覚悟なのだろうと思う。

 今後の私が己の社会性の欠落を恥じて社会に適応しようと努力することは絶対にないだろうし、もしも社会がそのツケを払わせようと私に報復してきたらその時は自分の誇りや自尊心を凌辱されて惨めにむごたらしく死ぬかもしれないということを覚悟して生きていかなければいけないのかもしれない。もちろん現状そんなことにはなっていないが、ならない予感が振り払えないのでいまから覚悟を持つ準備をしている。

 私にとって生きることは賭けに近づいている。賭けるものは自分の生。求めるものはチェーホフの『ワーニャ伯父さん』から言葉を借りれば《ほっと息がつける》 *1 もの。私はもはや生きることを喪失としか捉えていないが、それでも生きているのはゲーム相手であるこの世界に負けたくないからである。私にとって何かを失うことよりも絶対に負けられない相手に負けることが何よりも堪えがたい。

 だからどんなに惨めでも自分が屈しない限りは負けていないから生きていくつもりであり、辛酸を嘗めさせられた以上その相手には何らかの形で絶対に復讐するつもりである。以上。

*1:《でも、仕方がないわ、生きていかなければ! (間)ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命がわたしたちにくだす試みを、辛抱づよく、じっとこらえて行きましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。そして、やがてその時が来たら、素直に死んで行きましょうね。あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなにつらい一生を送って来たか、それを残らず申上げましょうね。すると神さまは、まあ気の毒に、と思ってくださる。その時こそ伯父さん、ねえ伯父さん、あなたにも私にも、明るい、すばらしい、なんとも言えない生活がひらけて、まあ嬉しい! と、思わず声をあげるのよ。そして現在の不仕合せな暮しを、なつかしく、ほほえましく振返って、私たち──ほっと息がつけるんだわ。わたし、ほんとにそう思うの、伯父さん。心底から、燃えるように、焼けつくように、私そう思うの。……(伯父の前に膝をついて頭を相手の両手にあずけながら、精根つきた声で)ほっと息がつけるんだわ!》
アントン・チェーホフ著・神西清訳『かもめ・ワーニャ伯父さん』新潮文庫 1967年 pp.238-239)

統合失調症と診断されてから3年が経った

 題のとおりです。2020年5月に幻覚や妄想などの陽性症状がピークに達し閉鎖病棟にぶち込まれ、そこで統合失調症と診断されてから3年の月日が経ちました。当時のあれこれはこちらの記事に詳しく書かれてます。

516.hateblo.jp

 現在は薬のおかげで認知機能障害や陰性症状もだいぶ回復してほぼ寛解したと言ってもいい状態にまで持ってこれました。せっかくなのでその際の経過と個人的な感想をつらつらと書いていきます。一応当事者に向けた情報も書いていこうと思いますが、あまり参考にならないんじゃないかと思います。薬の量や症状の重さが人によりけりな部分が大きい病気なので「ふーん」程度に留めていただけると幸いです。

飲んでる薬

抗精神病薬について

 発病当時から閉鎖病棟を退院するまではオランザピン(ジプレキサ)とリスペリドンを飲んでいました(量は忘れたけど徐々に増えていったことは覚えてる)。退院して別の病院へ通院方式になった時点でリスペリドン一択になり2㎎×3錠をしばらく飲んでいました。

 どうしてオランザピンが抜けたかというと、この薬激太りしやすくなることで有名なんですよね。食欲増加と非定型抗精神病薬による副作用の代謝低下のダブルコンボで下手すれば糖尿病になりさえします。幸い私の場合はその期間は味が薄くて量も多くない病院食を食べていて退院後はウォーキングを中心に運動していたのであまり影響を受けませんでした。

 それからはリスペリドンのみをしばらく飲んでいたんですが、陰性症状が続いていた期間だったからかこの時期は本当に虚無でした。読書が好きなのに文章も読めない、眠気ばかりでやる気も起きない、ひたすら無気力で生きる活力も湧かないのトリプルコンボで非常に堪えました。二度とあの灰色の日常に戻りたくない。

 リスペリドンのおかげからか幻聴や妄想などの陽性症状はまったくと言ってもいいほど皆無だったんですが、副作用に性機能障害が出てしまってそれが非常に気になりました。調べてもらったらわかると思うので私の口からは詳細を省きますが、(主治医との相談の元)減薬しても副作用が改善せず気になるが辛いになるのも時間の問題だったので、主治医と相談してリスペリドン自体をほかの薬へ変えてもらいました。これが現在まで飲み続けてるラツーダ20㎎×3錠になります。

 それでラツーダの飲み心地なんですが、結論から言うといままで飲んだ薬の中でいちばん合ってると感じます。切り替えてからは上の副作用もなくなりましたし、薬の影響なのか陰性症状が軽減してきた影響からかはわかりませんが、リスペリドンを飲んでいたときに感じていただるさや無気力が徐々に改善しはじめ、少しだけでもあれをやってみたいこれをやってみたいと思えるようになりました。現在ではやる気や生きる活力はすっかり回復して、幻聴や妄想などの症状も引き続き皆無でした。これからもなるべく飲み忘れがないように継続して飲んでいくつもりです。

睡眠薬について

 次に睡眠薬について書きます。ラツーダに切り替えてから不眠の傾向が見えはじめ、最初はエスゾピクロン1㎎×2錠を飲んでいました。しかし徐々に効かなくなり、主治医に相談してデエビゴ5㎎×1錠に変えてもらうとしばらくは楽に眠ることができました。

 それでも身体が慣れてしまったのかデエビゴ5㎎だけでは眠れないこともあり、そのときは5㎎×2錠に増やしてもらい、それを飲んで眠れてました。それとは別に睡眠薬の残存効果のせいか日中眠気がすごくて睡眠時間とは別に一日4~6時間ぐらいの昼寝をしてしまうのが個人的に悩ましく思っていたので、ある日眠れそうな予感がしたときに思い切ってデエビゴを飲まずに寝ようとしたら意外にすっと眠れたのでそれ以降は睡眠薬を飲んでません。日中の眠気もそれが原因だったようでかなり改善しました。

 これを言うと矛盾してるじゃないかと言われそうなんですが、上の不眠事情とは別にカフェインの力を借りて夜更かしして朝まで起きてる日もありました。日中は睡眠薬の残存効果のせいで昼寝してしまってるのと基本的に夜型なので勉強や活動などの可処分時間を多くするには深夜の時間を使っていたほうがお得で、使わざるを得ないんですよね。

 この夜更かしは睡眠薬を飲んでいた時期も飲まなくなった時期も続いていて、現在は「特に睡眠薬を飲まなくても入眠できるし、その気になれば夜更かしして朝まで起きていられて、その気になれば崩れた生活リズムも気合いの入眠で元に戻せる」状態にまでなりました。ハイブリッドですね。一周回って普通になりました。

デイケアなどの医療サービス

 個人的に無意味だと思うし嫌なので使ってません。いままで使ったこともないし、これからも使うつもりはないです。

 どうして嫌かというと、どうせデイケア閉鎖病棟の環境の延長線上にしかないものと見当がついてしまうからです。たとえば閉鎖病棟にはプログラムと呼ばれるレクリエーションがあり、その内容はというと希望者が集まって映画鑑賞、塗り絵、カラオケ、簡単な体操を行うのですが、これがまず私には性に合いませんでした。正直レクのほかに何もやることないからしぶしぶ消極的にやるレベルでレクの定義で示されているような娯楽ですらありません。心底つまらなかったし嫌でした。

 先ほど「希望者」と書いたのですが、希望者なのはたとえば全員強制参加だと少ない看護士・職員の手がまわらずパンクするからです。ではレクに参加しない人間はどうしてるのか? 結論から言うとそのへんでボーっとしていたり寝っ転がったり病棟内を歩き回ったりするなど非生産的な行動しかできません。つまり無為に時間を持て余しており、私はこのレクに参加してもしなくても無為に感じる時間を過ごさなければいけないのと、長時間拘束されるのが本当に嫌なので閉鎖病棟にとにかく良い思い出がありません。閉鎖環境じゃないだけでデイケアのプログラムも似たりよったりだと見当がつくので欠片も興味がありません。二度とあんな思いはごめんです。

 訪問看護サービスも数カ月間だけ利用していたのですが、これも肌に合わなかったのでやめました。睡眠薬の残存効果のせいで眠気がすごいのに週に1回決まった時間に起きていなければいけなくて、その内容はというと体調はどうですか⇔特に問題ありませんのラリーと血圧を測るだけ。

 実際に体調に問題があるなら意味があるんですけど、私の場合は眠気以外は幻聴も妄想も強い不安も体調も特に何もなかったのであまり意味があるとは思えませんでした。ただこれは私には合わなかったというだけでほかの方にとってはもしかしたら体調次第で意味があるんじゃないかと思います。ただ個人的にデイケアだけはおすすめしないです。

メンタルについて

 リスペリドンを飲んでいた時期は意欲の平坦さこそありましたが感情の浮き沈みが激しいということはありませんでした。将来の展望が見えないのはあれど生きる執念だけはあったので逆にネットサーフィンしていて希死念慮があるとか鬱症状が続いてる人が意外と多いことに驚きました。

 主治医と話してるときによく「死にたくなったり自傷したくなったりすることはないか」と聞かれて、そのたび私はまったくないと答えていたのでようやくその質問の意味がわかった気分です。ふと気になって主治医に自分の症状の具合はどれほどなのか訊いてみたところ「かなり良い方」と言われたのでそういうことなんだと思います。

障害年金などの制度

 利用してません。申請しようとも考えましたが初診日の関係でちょっとこれ難しいんじゃないかと諦めてからは面倒なので放っぽってます。障害者手帳の申請も面倒なのでしていません。現在の状態だと個人的に申請するメリットかなり薄いんじゃないかと思うのでこれからもする予定はないと思います。

今後の展望と個人的な感想

 体調も安定したことですし当分は資格取得しながら就活(転職)に注力すると思います。人生が正念場なので本腰入れていきます。

 最初に当事者にとってあまり参考にならないんじゃないかと言ったのは、私自身の症状の変遷を経て「自らの境遇にこだわればこだわるほどあなたの苦しみは誰かの同じ境遇の苦しみでしか真に癒やせないし、誰かの苦しみの完癒はあなたの不幸にさえなりうる」と感じるようになったからです。

 これはシンプルな話で、「いま」苦しんでいるときに「とっくのとうに」似たような苦しみから脱却した人のアドバイスなんて、未来から来た自分自身でもない限り、話す内容の仔細によってはマウンティングや梯子を外されたと受け取られかねないリスクを考慮すると参考になるかどうか以前の話になってくるし、実際のところホールデンに向けてアントリーニ先生が語ったような《美しい相互援助にまつわること》 *1 なんて、「純粋な形では」私には感じとることができないからです。

 流石にこの定言を声高に主張するレベルには論理的にも感情的にも至ってないんですが、とはいえ個人的な思いつきに留めておくのも忍びないのでどう受け止めるかは読み手の方に任せようと思います。

 最後にひとこと。自分の勝手な判断で断薬はするな。後悔することになる。以上。

 それではこのあたりで。ここまで読んでくださってありがとうございました。

COMFORT【やすらぎ】名 隣人の不安を見て生じる心理。
アンブローズ・ビアス著・筒井康隆訳『筒井版 悪魔の辞典〈完全補注〉㊤』講談社+α文庫 2009年 p.82)

*1:《何よりもまず、君は、人間の行為に困惑し、驚愕し、はげしい嫌悪さえ感じたのは、君が最初ではないということを知るだろう。その点では君は決して孤独じゃない、それを知って君は感動し、鼓舞されると思うんだ。今の君とちょうど同じように、道徳的な、また精神的な悩みに苦しんだ人間はいっぱいいたんだから。幸いなことに、その中の何人かが、自分の悩みの記録を残してくれた。君はそこから学ぶことができる──君がもしその気になればだけど。そして、もし君に他に与える何かがあるならば、将来、それとちょうど同じように、今度はほかの誰かが、君から何かを学ぶだろう。これは美しい相互援助というものじゃないか。こいつは教育じゃない。歴史だよ。詩だよ》
( J.D.サリンジャー著・野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて白水Uブックス 1984年 pp.294-295)

別に救わなくても構わないこの世界に祝福を(そして呪いあれ)

 上の画像は『さよならを教えて』というエロゲから引用した文章です。

 個人的にはけだし名文だと思っているのですが、なぜそう感じたのかを詳しく語りたいと思っています。

他者のいない「僕の世界」

 まず前提としておさえておきたいのは、この時点の語り手である人見広介は他者が介入できる余地の少ない精神状態に陥っていることです。

 もうこのゲームも20年以上前のエロゲなのでネタバレしても時効だと思っているんですが、いちおう断っておくと、主人公は統合失調症という病気を患っていて入院しているのですが、本人はとある女子校の教育実習に参加していると思いこんでいて、主治医である大森となえ(画像背景の女性です)とのやりとりから上の場面に至っています。

だって、僕の知覚の中以外のどこに世界があるって言うんだ?

 この文からわかる通り、人見広介は彼自身が知覚する他者にもその他者の世界が存在することを想定していません。彼の世界と他者の世界が絶望的に擦り合わず断絶しているから、彼のみが世界という誇大妄想に囚われます。

自己の存在確認なんて、誰にもできはしない。スーパーヒーローだって。

 たしかに道具を使わず自分で自分の顔(存在)を確認することはできませんが(鏡という他者がなければ自己を認識できない)、他者の視点を経由すれば自分で自分のことを評価できる、つまり自己確認ができます。

だから僕が世界じゃないか。僕は世界だ。だから僕が世界を救うしかないんだ。

 彼が全人類を救おうとするとき、またその全人類の苦悩を背負おうとするとき、その全人類とはすべて彼自身のことを指しています。全人類はどれを数えても彼しかいません。なのでとなえさんも全人類の苦悩を背負わなくてもいい、たったひとりで世界を救えるなんて思わないほうがいいと助言しているのですが、彼女の言葉は彼の耳にはまったく届いていません。なぜなら彼の精神世界には他者(となえさん)の視点がするりと欠落しているからであり、彼と彼女同士の世界がどうしようもなく断絶しているからです。

僕のお姫様‥‥。
僕がキミの救いで、キミが僕の救いだ。
セカイ系」との類似点

 ところで彼のこのスタンスはセカイ系という言葉で言及されるスタンスに非常に当てはまるかもしれません。

 セカイ系とは『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』に代表されるような物語の類型のことを指し、特徴として、主に自意識過剰な語り手がたかだか自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる傾向があるのですが、個々人で言及があるにしろ定義が曖昧なままはっきりしておらず、ここは『波状言論 美少女ゲームの臨界点』編集部注の、

主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項〔社会領域や社会的影響〕を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと(亀甲括弧内筆者、丸括弧内原著)

 という定義が後々の言及を踏まえて適切だと思ったので引かせてもらいます。

 さらに補足させてもらうと、「具体的な中間項を挟むことなく」というのは世界の危機に対する国家の動向や国際機関、社会やそれに関わる人々がほとんど描写されず、主人公たちの行動や危機感がそのまま「世界の危機」にシンクロすることを指します。

 たとえば強大な敵によって世界が危機に陥ると国家が軍隊を要請したり経済に影響が出て人々の生活が厳しくなるみたいなのがありますが、そういう描写がいっさい描かれずに主人公たちの動向のみで世界の危機具合が変化するという感じです。

 話を戻しましょう。統合失調症という重症化すれば個人そのものの危機になりかねない病気を患っている人見広介のスタンスは上記で示したセカイ系の定義に非常に当てはまるかもしれないという話をしました。

 なぜそう思うかというと、セカイ系で示された人間の社会全体という意味である「世界」を彼自身の「(精神)世界」と置き換えたら、状況は合致するからです。

 なぜ置き換えられるのか? 先ほど示した通り、彼の精神世界には他者の世界が考慮されておらず、また他者(の視点)が介入されておりません。ゆえに彼しかいない世界は彼のみの世界であり、また他者のいない世界は人類=社会全体=その人自身という等式が生まれます。これは人見広介の(精神)世界には全人類のどれを数えても人見広介しか存在しないという言い換えにもなります。

「きみとぼく」と「他者と個人」の違い

 では彼が救いを欲している「キミ(お姫様)」とは誰なのか? これはそもそも問いを変えるべきで、「キミ」はそもそも人見広介にとっての「他者」なのか? と考えるべきです。なぜなら「誰か」とは必然的に他者が存在することが想定されるニュアンスを含むからです。

 結論から言うと「キミ」は人見広介にとっての「他者」ではありません。なぜなら彼の言う「お姫様」というのは「『私』のご都合通りに従ってくれる人形的な存在」もしくは「存在しない空想上の完璧な理解者」であって、「『私』の理解をすり抜けるような他者」ではないからです。

「キミ」に救いを求めまた求められようとする彼は非常に追い詰められています。彼にとって「世界の危機」とは「個人の危機」と同義です。個人の危機に陥った人間が取れる行動は主に3パターンあり、(救い主に)救済されるか、(自分の世界を守るために)戦うもしくは抗うか、そのまま何もできず人間として死ぬ(発狂)かのどれかしかありません。セカイ系のヒロインが無力な主人公に代わって戦闘もしくは救済を「宿命化された」のは偶然ではないと思います。

他者を招き入れることで個人の危機を脱する

 ではこのような個人の危機を普段から回避するにはどうすればいいのか? 具体的な方法は色々あると思いますが、原理的な観点から自分の世界に複数の他者(の視点)を招き入れ、適度に交流を図ることだと思います。要は「世界の危機」の際に助けたり頼ったり対応できたりする他者というワンクッションがないからその危機がダイレクトに個人の危機に直結するわけで、他者の世界との共通項を作っておけばその数だけ社会性を獲得できるからです。

 言ってることは特に難しいことではなく、たとえば小中学校の頃に友達の家に誘われて、もしくは自分の家に誘って複数人で遊ぶなりゲームなりして駄弁るという経験が(私は「誰にでも」という言葉に抵抗があり本当に誰にでもあるのか実際に確認したことないのでここでは一例に留めておきます)あると思うんですが、大人になっても自分の好きな話や個人的な悩みなどで他者と盛り上がったり頼れたらいいなという話ですね。余裕があるなら違う視点の他者の交流を図ろうとするのもいいと思います。

 となえさんの言う通り、たった自分ひとりだけで自分の世界を救おうとすると必ず無理が来るので、別に自分が世界を救おうとしなくても誰か(自分の世界との共通項を持ってくれている他者たち)が救おうとしてくれるから大丈夫というスタンスが必要なんじゃないでしょうか。いざとなれば自分も参入して他者と協力連携して危機に立ち向かっていけばいい話ですからね。それまでスーパーヒーローでなくともモブはモブのままでいいわけです。

現代の「きみ」に対応する「推し」という存在

 ここまでこの話は「きみとぼく」の話であり、適用されるのは人称とセカイ系という観点から男性の場合に限られると思った方はいるでしょうか? 残念ながら私は最初から個人の問題の話をしているのであり、そもそも人見広介に限らずとも統合失調症は個人が患う人間的な病気です。ゆえに汎用的な話をしています。

 なぜ私は「お姫様」という語句を説明する際にわざわざ「私」という一般的な人称を使ったのか? 「『私』のご都合通りに従ってくれる人形的な存在」で遊ぶようなお人形遊びは本当にごく一部の人間に限られるのか? 現代の人間が個人の危機に陥ったとき、その人間に対応するような「きみ」とは一体誰なのか?

 このような問いに対して集約的な示唆を与えてくれる語句をひとつ提示しておきましょう。それは簡易的な神(偶像)である「推し」のことを指します。

 というわけで「推し」に関する事柄まで絡めて語ろうと思いましたが、紙面と気力が足りないので示唆のみに留めておきます。これはたとえば好きなキャラとその解釈、ひいては二次創作におけるキャラとの向き合い方や解釈違いにも大きく関わってくるんですが、これだけで一本書けそうなのでちょっと頑張って書いてみようと思います。とはいえ書くの遅いのであまり期待しないでください。

 ちなみにセカイ系については前島賢の『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』という本が詳しいのでよかったら読んでみてください。非常に良い本だと思います。

20230202の日記

この文章は

 贅沢にScrivenerで書いてます。Scrivenerとはざっくり言えば論文執筆などの長文作成ソフトなんですけど、長文を書く機会も能力もないのでこうやってアウトラインが組める高機能のメモ帳として使ってます。高機能アウトラインプロセッサというのかい? 贅沢な名だねえ……。

 一時期テキストエディタに凝ってた頃に「これだ!」と思って解説書と一緒に買ったんですけど、設定だけして見事に使いませんでしたね。小説のネタとか思いついてこれで書きはじめた文章がいくつかあるんですが、頓挫してどれも書きかけのままです。いつか書き上がるといいね~(フラグ)。

 直近はまた使ってみようと思い設定を見直してみたらすでに過去の自分が痒いところをほぼセッティングしてた。こうなると自分が特に意味もなくただ漫然と時間を潰したいだけだと自覚させられてつらいね~。懲りずにもう一回やりそう。

 それはそれとして慣れてくるとさすが高機能と謳ってるだけあって便利に感じます。感じるだけ。まだ半分の機能も使いこなせてるとは言えないけど、いろいろ試しながら遊んでみようと思います。

最近勉強してる内容

 病気の後遺症で破壊されたモチベが復活しはじめ、やりたいことができたので2023年は資格や検定の勉強を頑張るとTwitterでは言ったんですが、具体的には趣味の範囲でIT系の資格を中心にいくつか取るつもりです。

 現時点で興味があるのはJavascriptPythonなので、その前段階としてHTML5プロフェッショナル認定試験 レベル1とPython3 エンジニア認定基礎試験を受験する予定です。

 どれも基礎レベルの試験であり、最終的には応用レベルであるHTML5プロフェッショナル認定試験 レベル2とPython3 エンジニア認定実践試験まで受験して合格できればいいなと考えてます。ほどほどに頑張ろう。

 ちなみにHTML5プロフェッショナル認定試験のためにWeb問題集サイトのPing-tに2ヶ月分の有料コンテンツを課金したので、あわよくば1ヶ月以内で試験に受かって余った残りの1ヶ月分はPostgreSQLを使ったDBスキルを示すOSS-DB Silverの試験勉強に時間を割きたいと思ってます。せっかくなので受かるところまでいきたいねえ……。

ポカリがうまい

 題の通り。最近ポカリにハマっている。

 人生であまりコーラを飲めなかった反動と安く買える自販機が近所にあることが奇跡のマッチングを起こしたことで集中的にコーラばかり飲んでいた時期があり、ひどいときは週4~5の頻度で500mlのコカコーラをがぶ飲みしていた。

 もちろん体にはすこぶる悪かったわけで、月に1度の診察で血圧を測ったら以前よりもびっくりするほど高くなっていたので(体重はそこまで変わらなかった)これはやばいなと焦りはじめ、そろそろコーラに飽きていたのもあってコーラを断って代わりにポカリを飲みはじめた。飲みすぎるのもよくないので多くても週3までに飲む頻度も控えるようにした。

 1ヶ月後、血圧はかなり下がり正常値の範囲に落ち着いた。やったね。

 とはいえ、コーラがポカリに代わったところで依然として飲みすぎには気をつけるべきではある。さすがにコーラほどではないがポカリも糖質が比較的少なくない飲み物なので調子に乗ってがぶ飲みしてると将来確実に糖尿病になりそうなのが怖い。適度に生活習慣を見直しながら用法用量を守ってこれからも飲んでいきたいですね。

 ただそれを抜きにしてもポカリのおいしさは尋常でないと感じる。ワクチンの副作用でグロッキーになってたときも全部ポカリのおかげで助かったようなものだった。当時はもはやポカリ吸ってた。

想起させたいのはエピソードなのか評価基準なのか

 日記を書くとき、なるべく1つ以上エピソードを想起させるような内容を挟むように心がけている。なぜかというと、小説を書くときの練習になるんじゃないかというあわよくばみたいな考えと、あと単純に漫然と物事を評価的視点で見ようとすることに疲れを感じてるから代わりにエピソードでも書いて読み返すときにのほほんとしていようというのがある。

 基本的に他人の人格が垣間見える所感や思索が綴られている文章を読むのが好きなので自分もそのように書こうとしているけど、そううまくいきそうにない。もっとすらすら書ければいいのだけれども、いつものように時間がかかる。時間がかかりすぎて書くモチベが冷める。負のスパイラル……正直こればかりは辛抱強く付き合っていくしかない。

 ふと日記形式の小説が気になってサルトルの『嘔吐』が身近にあったから手にとってパラ読みしてみたけれど、参考にするにはあまりにも観念的かつ描写的だった。『嘔吐』は数年前に読んでいたが、ロカンタンがマロニエの樹の根を見て吐き気を催す場面は意外と覚えており、それ以外はほとんど覚えてなかった。これを機にもう一度読み返してみようかな……たぶんずっと先になりそうではある。

 ここまで書いて、(つらいことだが)自分が求めてるように書くことと実際に自分が書けることは切り分けて考えたほうがいい気がしてきた。ふだんなら自分が求めることに漸近できるように書こうとしているのだが、正直いまの自分だと疲れてるからかどうにもならないことを「どうにもならないねえ……」と管を巻いて延々と憂鬱なことを書いてるほうがまだ性に合ってる気すらある。というか私はそういうのも好きなので気分しだいでやりかねないです。

 題の話。冒頭でなるべくエピソードを想起させるようにしてると書いたけど、この項目にいたっては意図せず評価的視点もそこそこ混ざっている。ある文章が読み手に筆者のエピソードを想起させるのか筆者の評価基準を想起させるのかの違いについてちょっと考えてみたけど、おそらくその文章の中にあるそれぞれエピソードと評価の配分によるだろうという結論に落ち着いた。たとえば物語なら想起させるのはもちろんメインとなるそのエピソードだし、評論や批評なら読み手にその筆者の評価基準が主に想起されるはずである。

 ただこれはごくシンプルかつ当たり前の話であって、もしもある文章のエピソードと評価の配分が半分ずつだったら? もしもある文章のエピソードの配分が6割前後で、残り4割が評価ならそれは読み手にどのような想起をもたらすのか? そんなことがつい気になった。そのような文章がどんなジャンルに該当するのかどうかは私は興味がなくて、ただ読んでみたらどんな読み味がするのかな~自分が想起させたいのはどんな内容なのかな~と改めて思った次第です。次になにか本を読むときはちょっと意識して読んでみることにする。

 念のため書いておくと、上記で言った読み手の想起する評価基準というのは「読み手自身の筆者の文章に対する二次的な評価基準」ではなく、「読み手自身が最初に頭に入れるであろう筆者の一次的な評価基準」のことを指している。ある評価は総じて別の評価にメタ評価されるか、あるいはひとつの基準として流用されやすい。私はそんな評価のメタゲームにほとほと疲れを感じてしまって、こんなことを考えていたんですね。

【MHR:SB】傀異錬成で欲しいスキルを効率よく網羅的にスナイプ(厳選)するリセマラ方法

【注意!】この記事は2022年8月26日のアプデVer.11.0.2(Switch版)/Ver.11.0.2.0(Steam版)時に書かれたものです。また、筆者が傀異錬成スナイプ時にプレイしていたのはSwitch版であり、まだ隅々まで検証しているわけではないので試す際は自己責任でお願いします。

 MHR:SBのエンドコンテンツである傀異錬成の沼に無事ハマり暇を見つけては傀異化マラソンをしているのですが、精気琥珀をひいひい貯めては傀異錬成につぎ込んでいるうちに防具に付くスキルの法則性らしきものが見えてきたので、とりあえず記事という形でまとめることにします。発想の大元の部分は某掲示板から得ていますが(通称ザザミ法、またはカタカタ)、今回は特別な操作は「セーブせずに終了してタイトル画面に戻る」だけでそれ以外は特に使わない方針で紹介していきます。

前提知識

 ※前提知識の情報については以下の外部リンクの内容から適宜補足をした形で必要な部分だけ引っ張っているだけですので(ごめんなさい)乱数消費の仕組みなどもっと細かい仕様を知りたい方はリンク先へ飛んだり、もしくは内容をある程度把握している方は適宜読み飛ばしてください。

www.wicurio.com

コスト

 錬成を行うと毎回異なった形で防御力・スロット・属性耐性・スキルが変化しますが、実はこの変化は直接すべての数値を抽選しているわけではなく、あらかじめ決められた小さな錬成効果を「どう組み合わせるか」が抽選されています。たとえば防御力を8上げる効果や、スロットを1拡張する効果、属性耐性を-2する効果、特定のスキルが追加、もしくは減少する効果などがそれにあたります。

「現在のステータス」を見ると、防御が+17、水耐性が+2、龍耐性が-2、スキルは満足感と砥石使用高速化が+1追加されており、回復速度が-1減少している。

 これらは良い効果ほど高いコストが割り振られており、逆に悪い効果に対してはマイナスのコストが設定されています。このコストの合計数値が一定になるような組み合わせで錬成結果が生成されるため、良い効果を多く付けたい場合には悪い効果も伴うことが普通になります。意外にもコストの合計数値が±0になるような調整ではないため、ちょっとした強化であればプラスの効果だけを得られることもあります。

例:

  • 防御を+3する効果はコスト1、防御を-6する効果はコスト-3
  • スロットを1拡張する効果はコスト6、2拡張する効果はコスト12
  • ひるみ軽減を+1する効果はコスト3、連撃を+1する効果はコスト12、元防具のスキルをひとつ-1する効果はコスト-10

良い効果を多く付けられたが悪い効果も伴った例。スロット411からスロット442と不屈が追加されたが、代わりに防御が-20されたジャナフ腰

防具テーブル

 MR防具はレア度とは別に傀異錬成に対応するグルーピングがされており、そのグループに応じて錬成効果コストの合計値が決められています。たとえばレウスXシリーズは合計コストが14になるように効果を付与できますが、同じレア9でも古龍系のアーク/フィリアXシリーズは12までです。また低レアほど合計コストは多くなり、高レアほど合計コストは少なくなる傾向があり、レア8のインゴットXシリーズは合計コスト18まで、レア10のシルバーソルシリーズなどは合計コスト12までしか錬成効果を付けられません。

 さらにこの防具グループが違うと、錬成効果ごとのコストや付与可能な錬成効果もわずかに異なります。この対応関係(合計何コストでどんな錬成効果が付く可能性があるかの表)を以後便宜的に防具テーブル*1*2と呼ぶことにします。ただしこれにより錬成効果とコストの対応が異なるのは基本的に防御力だけ(レア度が高いほど同じコストでも低めの防御しかつかない)で、唯一の例外がしまき・なるかみシリーズにあたります。しまき・なるかみシリーズだけは専用スキル「風雷合一」の関係からかスキルが増減されるタイプの効果を一切付けることができません。

 どの防具がどの防具テーブルに属するかや効果ごとのコストの詳細は以下の外部リンクを参照してください(あとで使うことになるので頭の片隅に置いておいてください)。

hyperwiki.jp

未来視

 2022年8月26日のアプデから武器の傀異強化を利用したリセマラ(武器錬成の攻撃力強化を開いて十字キーの上か下を押しっぱなしにすることで錬成結果が変動する不具合を利用した方法から「カタカタ」と呼ばれたので以降そう呼ぶことにします)は修正されできなくなっています。

 しかし、カタカタで使っていた一部の手順の仕様は生き残っており、たとえば錬成結果のスキルの組み合わせは一見ランダムに決定されますが、単純にゲームをセーブせずに終了してやり直しても毎回同じ結果が出るようになっているなど(詳しくは後述)、これを利用して特定の防具である程度精気琥珀を消費することによりその分だけ防具(テーブル)の錬成結果の並び順だけを把握することが可能になっています(以降このテクニックを「未来視」と呼ぶことにします)。

移植

 この未来視を利用することで、「次はこういう錬成結果が並んでいる」というのがわかれば別の防具にもおおよそそれを適用できます。つまりある防具を錬成しているときに、「防具Aではなく防具Bに付いたらなあ」という結果が出た場合、ゲームをセーブせずにリセットして前回と同じように錬成(=琥珀消費)を進め、「次に欲しい結果が出る」というタイミングでお目当ての防具を錬成するとそちらにその結果を移すことができるということです(以降このテクニックを「移植」と呼ぶことにします)。

 ただしおおよそと強調したように、防具のコスト上限によって錬成効果の判定が合計として打ち切られるタイミングが異なるため、必ずしもまったく同じスキル構成がそのまま移植されるとは限りません。たとえば移植元と移植先の防具テーブルが異なる場合、完全に同じ結果が移せることはありません。特に低レアの防具から高レアに移植する場合、そもそも高コストの錬成効果(3スロット増加=18コストや弱点特効=15コストなど)は本来の高レア防具のコスト上限をオーバーしていることすらあります。

 そのようなケースでは(移植に関わらず)錬成効果が「マイナスコストの効果⇒高コストの効果」という風に並んでいる状態でしか高コストの効果を付けることはできないので、移植失敗の可能性が極めて高いです。また高レアから低レアの移植においても、高レアでは「コストオーバーで効果スキップ⇒別のマイナス効果でコスト増加⇒目的の効果が付く」という流れで付与された効果の場合は移植できないことがあります。これは低レアではそもそも最初の効果がコストオーバーにならずに付与が成功してしまい、そこでコスト合計が合致して判定が打ち切られかねないためです。

 その一方防具テーブルが同一の防具間で、かつスキル数の溢れによる再抽選が発生しない場合は理論上必ずそのままの結果が移植可能です。今回はこれを利用して傀異錬成のスナイプを実践していこうと思います。

 途中で別の防具に乗り換えて錬成しつづけても未来視で得た錬成結果の並び順は同一テーブルなら基本的に変わりません。しかし防具テーブルが同一でも消費乱数により錬成結果が変わったり結果の並び順にズレが生じるケースがあります。錬成結果は錬成元の防具についているスキル数+スキルLvによって変化し、総スキル数の上限は元防具+傀異錬成で最大5種類までです。たとえば同じテーブル6であるシルソル胴と激ラー頭を比べてみると、シルソル胴は錬成元のスキル数が3つなのに対し激ラー頭は錬成元のスキル数が4つですのでスキル数上限による再抽選に引っかかりやすく、最初の十数回は両者同じでも途中から錬成結果が変わることがあります。そのため錬成5回目に良い効果があるからといって、お目当ての防具を5回錬成しても無意味です。元の防具を4回錬成後、最後だけお目当ての防具を錬成するのが適切なやり方です。

 なおスキルがマイナスされる効果を移植する場合、スキルの表示位置に依存してマイナスされるようですが例外的な報告もありいくつかの仮説はあれど完全に解明はされていません。

事前にやっておきたいこと

 いよいよ方法の紹介に移るんですが、心配な方は事前にセーブデータをバックアップしておきましょう。それからリセットを多用するため必ずオートセーブをオフにしているのを確認しましょう。せっかくのリセマラがパーになります。

実践

 方法はかいつまんで言うと以下の通りになります。

  1. セーブする。
  2. 欲しいスキルを付けたい防具の候補をいくつか選び、上記で紹介したhyperwikiを参照し防具テーブルごとに分類する。
  3. 精気琥珀・尖だけでもいいから消費前の琥珀の総数をあらかじめメモし、テーブル6内の防具からひとつ基準に選んでまとまった回数(最低でも50~100回ほど)未来視する。この回数は統一させること。
  4. 未来視して良いスキルがなかったらリセットし今度はテーブルの数字を下げてそのなかから防具をひとつ基準に選んで未来視。以下繰り返し。欲しい結果が見つかれば5へ。
  5. 欲しい結果とそのときの残り琥珀数をメモする。余裕があれば琥珀の総数と残り琥珀数の差からそこまでの錬成回数も割り出してメモする。
  6. リセットして移植元の防具(※移植先ではない)を5でメモした残り琥珀数の1個手前まで錬成する。
  7. さっき出た効果を付けたい防具を錬成、上手くいけば同じような効果が付く。
  8. 上手くいったらセーブして終わり、いかなかったら諦めてリセットして9へ(6に戻って別テーブルの防具への移植を試すのも可)。
  9. 3に戻る。

 文章だけで示しても細かい部分が伝わりにくいかもしれないので、ここからは実際にスクショも交えながら解説していこうと思います。

 忘れずにセーブしたあと、まず欲しいスキルを付けたい防具の候補をいくつか選びましょう。始めたてのうちはメインで狙う防具だけ絞るのもありですが、傀異錬成の途中で小当たりなどを引くことも少なくないので、移植に慣れてきたら防具の候補を増やしていくのもありです。私の場合、選んだ防具はレア10から順に以下の通りです。

テーブル6:シルソル頭(基準)、ラスボス胴、ラスボス脚、怨嗟マガド腰
テーブル5:カイザー頭(基準)、フィリア脚、メルゼ脚
テーブル4:レウス腰(基準)
テーブル2:インゴット脚(基準)、アルブーロ腰

 再度繰り返しになりますが選んだ防具は上記のhyperwikiを参照して分類しておきましょう。分類は複雑そうに思えますが、実は簡単な覚え方があります。まずレア10の防具はすべてテーブル6です。レア9の防具はテーブル5とテーブル4の防具が入り混じっていますが、そのなかでも古龍(ドス古龍、アーク/フィリア、メルゼ)の防具はすべてテーブル5に該当し、それ以外の傀異錬成で使うであろう防具はほとんどテーブル4に該当することが多いです。*3慣れてきたらメモせずともテーブルごとの分類が頭に入るようになります。

 ここで注意点ですが、テーブルごとに移植元となる防具を基準として決めておきましょう。前述の赤文字の通り、防具テーブルが変わらなくても錬成しつづけていくうちに付与される防具のスキル数の関係で(正確には乱数消費によって)途中から錬成結果が変わったり結果の並び順にズレが生じるケースがあります。この現象をなるべく防ぐためにあらかじめ錬成しつづけるための防具を基準(移植元)として固定しておきます。移植の際には移植元の防具を欲しいスキルの効果の直前まで錬成したあと、最後だけ移植先であるお目当ての防具を錬成する手順もそういったズレを起こしにくくするためのテクニックです。

 準備も整ったので、いよいよ傀異錬成です。その前に消費する精気琥珀の総数をメモしておきます。今回は橙琥珀しか使わない予定なので、琥珀の種類は尖だけメモすることにします。下図では400個以上ありますが、こんなに貯める必要はなくせいぜい橙琥珀を100個ぐらい集めておけばレア9でも50連ほど回せるので大丈夫でしょう。

精気琥珀の総数。ここでは精気琥珀・尖しか使わない予定なので、メモ帳に435とメモする。

 シルソル頭を基準として50連分(レア10なら橙琥珀100個分)未来視します。この結果、残り335個に達してもめぼしいスキルが見つからなかったのでセーブせずにリセットし、テーブル5の基準として選んだカイザー頭で同じことをやります。

 今度は1回あたりの琥珀消費数がレア10と違って1個なのでとりあえず残り385個に達するまで未来視します(残り琥珀数が違うことについては後述)。今回は残り410個目で超会心が来ました。しかし私が欲しい防具はスロットが追加されたカイザー頭211+攻撃系スキルなので微妙に希望に沿いません。泣く泣く見送ろうとしましたが、ちょうどいい例なのでレウス腰やインゴット脚に移植を試してみます。もしかしたらついでにスロットが追加されるかもしれない……と淡い希望を抱きましたが、結果は以下の動画の通りスロットは追加されませんでした……残念……。

残り琥珀数410個目で来た超会心

 そのままカイザー頭を50連して残り385個になっても欲しいスキルが来なかったので今度はテーブル2であるインゴット脚を50連分未来視します。ここで気をつけるのは、インゴット脚のようなレア8防具でも琥珀の種類はそのときの残り琥珀数を把握するために橙琥珀を消費させることです。もったいないように思えますが、あくまで残り琥珀数から逆算した錬成回数を把握するためのもので、どうせあとでリセットするので無問題です。

 もしも最後に試すテーブルで当たりが出なかった場合でも、どのテーブルでもX連分の未来視では当たりが出なかったということなので、さっさとその回数分の琥珀を消費させることで錬成結果の並び順を前に押し進め、セーブしてまた手順3から始めたほうが効率がいいです。なのでここで橙琥珀をレア8防具で消費させても特に損にはなりません。計算に自信のある方は橙琥珀ではなく青琥珀や緑琥珀を消費させても構いません。

 インゴット脚を50連分未来視した結果、これも当たりが出なかったので橙琥珀が残り385個になるように消費し、セーブしたあと再び手順3に戻ります。以下繰り返しです。ふつうなら各テーブルで50連もすれば小当たりが1個ぐらい来てもおかしくないと思うんですが、回しきれなかったのかなかなか運が悪かったようです。テーブル6からまた次の50連分を回します。

 テーブル6の防具を残り335個まで未来視していたのに対しテーブル5の防具を残り385個まで未来視していたのは、錬成結果は琥珀消費数ではなく錬成回数によって進むので、同じ50連分でもテーブルによっては残り琥珀数が余ったり減ったりします。これはつまり一度に回す琥珀消費数が1つでも2つでも錬成結果は回した分だけ進むという意味であり、たとえば残り橙琥珀数が150個の場合、レア10の防具を50連(琥珀消費数100個)だけ未来視しても当たりが来なかったときに、レア9の防具を50連(琥珀消費数50個)だけ未来視してからもう一度レア10の防具を回そうとすると、錬成結果を50連分だけ進めた状態で残り100個、つまりもう50連分ほど未来視できるようになり、150個全部をレア10に消費する場合と比べて結果的に25連分お得になります。うれしいですね。

 もしも錬成の途中で当たりが出ても、すぐ移植作業に移ってセーブするのではなく、とりあえずは当たりの残り琥珀数をメモしたうえで所定の回数分まで錬成を回しきり、リセットして残りのテーブルでも未来視を終えてから移植作業に移るのをおすすめします。これはたとえばテーブル6で50連分未来視しようとしたところ25回目で当たりが出た場合、それ以前の24回分はテーブル6ではハズレと決まっていますが、まだ未来視してない残りのテーブルでは24回分のなかで別の当たりが出てくる可能性があるからです。またそれ以降の25回分はテーブル6ではハズレかわからないので回して確認してみる価値があり、まだ未来視してない残りのテーブルでも別の当たりが出てくる可能性がもちろんあるので残りのテーブルまで未来視して確認してみる価値があるということです。

 この各テーブルにおける未来視ローテを利用することで、X連分のうちに出た複数個の当たりに目星をつけたあと、当たりを集約する形で通しのX連分で各テーブルの防具に連続して当たりを反映させることができます。これはたとえば50連分のうち15回目にテーブル6の防具では当たりA、30回目にテーブル5の防具では当たりB、45回目にテーブル2の防具では当たりCが出ることがわかったとします。その場合、基本的には通しの50連分で1~15回目まではテーブル6内の防具間で当たりAを移植、16~30回目まではテーブル5内の防具間で当たりBを移植、31~45回目までテーブル2内の防具間で当たりCを移植……と、1セットの錬成で各テーブルの防具にたて続けに当たりを反映させる方法が可能です。

 しかし、この方法は集約結果が多かったり当たり同士の間隔が近い場合、ぶっつけ本番で成功させるのはわりとむずかしいです。また防具の移行を頻繁に繰り返すため、気をつけていても前述のズレが比較的起こりやすくなり、錬成結果の回数は予想されていたものとズレることがあります。そのためやる場合は面倒くさいと思いますが通しで仮実行して実際の回数と錬成結果を把握してから本実行に移りましょう。これにより一連の手順を安定化させることができます。

 以上が傀異錬成で欲しいスキルをスナイプするリセマラ方法と知っておくといい知識になります。非常に長くなりましたが、ここまで読んでいただいてありがとうございます。以下の続きは筆者が橙琥珀を追加で約330個まで消費して得た傀異錬成ガチャのダイジェストになるので読まなくても大丈夫です。追記などもする予定ですので感想や質問があれば気軽に以下の質問箱に投げ入れていただいたら幸いです。(時期によっては鍵をかけてるかもしれませんが)Twitterで答えたのち、わかりやすいように改めて当記事へなるべく反映させるつもりです。

odaibako.net

おまけ

 残り琥珀数385個から開始。シルソル頭を50連分未来視する。当たりが来なかったのでリセットしテーブル5のカイザー頭を50連分未来視。当たりが来なかったので次はレウス腰を未来視。すると残り371個目で第2スキルマイナススロ3追加が来たので、どの防具へ移そうか考えることに。急遽予定になかったゼクス頭を用意し、移せるか試そうとしたところ成功。しかしすぐにはセーブせず残りの琥珀でレウス腰の錬成をつづける。50連分が終わったところでリセットし、ついでにほかの当たりがないかインゴット脚も50連分調べる。その結果当たりが来なかったのでリセットしたところで改めてゼクス頭に目的のスキルを移植し、今度は忘れずにセーブ。各テーブルの残り335個までの結果はすでに未来視してるので、ゼクス頭の錬成で余った分の琥珀はレウス腰で消費してセーブ。

残り琥珀数371個目で来た第2スキルマイナススロ3追加のレウス腰。

そのレウス腰から移植したゼクス頭442。

 残り琥珀数335個から開始。シルソル頭を50連分未来視する。当たりが来なかったのでリセットしテーブル5のカイザー頭を50連分未来視。すると残り293個目で大当たり演出で連撃が来たのでしばし悩む。連撃を付けたいのはテーブル6のラスボス脚だったので連撃をそのまま移植できるか不安だったがものは試しということでやることに。移せるか試そうとしたところ成功。連撃が付くことが確定したので残り335個から293個になるまでのハズレ分でインゴット脚を未来視しようと思ったが勢い余ってセーブしてしまったため泣く泣く諦める。レア9→レア10への移植で琥珀を1つ多めに消費したので、残り293個から285-1=284個までインゴット脚で消費してセーブ(この先生じるかもしれないズレの懸念からカイザー頭で消費しようとしたがなにを血迷ったのかインゴット脚で消費した)。

残り琥珀数293個目で来た大当たり演出の連撃属性やられ耐性追加のカイザー頭。

そのカイザー頭から移植した連撃属性やられ耐性追加のラスボス脚。

 残り琥珀数284個から開始。シルソル頭を50連分未来視する。当たりが来なかったのでリセットしテーブル5のカイザー頭を50連分未来視。当たりが来なかったので次はレウス腰を未来視。281個目で守勢スロ1追加が来たのでメモしてそのまま50連分まで回す。めぼしい当たりが来なかったのでレウス腰に守勢スロ1追加を反映させてセーブ。余った琥珀は残り234個までインゴット脚で未来視することにする。257個目で陽動不屈スロ3追加が来たのでアルブーロ腰に移植することに。移せるか試そうとしたところ成功。そのままセーブしたあと、残り234個までインゴット脚で未来視&消費してもう一度セーブ。

残り琥珀数281個目で来た守勢スロ1追加のレウス腰。

残り琥珀数257個目で来た陽動不屈スロ3追加のインゴット脚。

そのインゴット脚から移植した陽動不屈追加のアルブーロ腰431。

 残り琥珀数234個から開始。シルソル頭を50連分未来視する。当たりが来なかったのでリセットしテーブル5のカイザー頭を50連分未来視。当たりが来なかったので次は別のレウス腰を未来視。当たりが来なかったので次はインゴット脚を未来視。残り184個まで当たりが来なかったので消費した形でそのままセーブ。

 残り琥珀数184個から開始。シルソル頭を50連分未来視する。残り136個目(184-136=48を2で割って24回目)で第2スキルマイナス3スロ追加が来たので怨嗟マガド腰に移植するためにメモ。そのまま残り84個まで未来視をつづける。ほかの当たりが来なかったのでリセットしテーブル5のカイザー頭を50連分未来視。24回目まで当たりが来なかったので一応メモ。残り158個目(26回目)で第2スキルマイナス3スロ追加が来たのでメモ。そのまま残り134個まで未来視をつづける。ほかの当たりが来なかったので次はレウス腰を未来視。当たりが来なかったので次はインゴット脚を未来視。24回目まで当たりが来なかったので一応メモ。残り134個まで当たりが来なかったので移植作業に移ることに。24回目の当たりと26回目の当たりの間隔が近すぎるため、今回は怨嗟マガド腰のほうを優先することに。移せるか試そうとしたところ成功。24回目まではレア10防具で回してたのと傀異適応で琥珀を1つ消費したため、合計50回になるようにレア9以下の防具で残り(134-26-1=)107個まで琥珀を消費してセーブ。

残り琥珀数136個目で来た第2スキルマイナス3スロ追加のシルソル頭。

そのシルソル頭から移植した第2スキルマイナス怨嗟マガド腰442。

泣く泣く見送った第2スキルマイナス3スロ追加のカイザー頭。

 残り琥珀数107個から開始。シルソル頭を50連分未来視する。当たりが来なかったのでリセットしテーブル5のカイザー頭を50連分未来視。当たりが来なかったので次はレウス腰を未来視。当たりが来なかったので次はインゴット脚を未来視。残り57個まで当たりが来なかったので消費した形でそのままセーブ。

 以上で傀異錬成ガチャは終了になります。ここまで読んでくれた方は本当にお疲れさまでした。それではよき傀異錬成ライフを!

*1:あくまで錬成効果のコスト表であって、錬成で出来る結果が表のように並んでいるという意味ではないことに注意してください。

*2:大いに参考にしたリンク元では錬成効果テーブルと呼ばれていましたが、防具テーブルと書いたほうが表を見たときに防具との対応関係が直感的にわかりやすいのでそう呼ぶことにします。

*3:ほとんどと言ったのは、バゼルやラー、セイラーなどの受付嬢シリーズの防具はテーブル5に該当するため。

私の統合失調症

 2020年5月はじめ、私は統合失調症と診断され精神病院に入院した。今回はその経緯について詳しく書いていこうと思う。当時正気を失っていたのもあり1年も経ったことなのではっきりと思い出せない部分もあると思うが、そのあたりも含めて頑張って書いていくつもりではある。

前兆

 統合失調症は、自分自身が病気であるという自覚(病識)が乏しい。幻覚や妄想のような症状が起きていても、それが病気による症状だということに自分で気づくことができない。私も例に漏れずそのケースだった。幻聴や妄想がひどい当時でさえ、「自分は病気ではない、ただ調子が悪いだけ」だと思っていたのだ。いつからその病気がはじまったのか、実のところよくわかっていない。しかし、いま思い返してみれば、統合失調症の前兆とも呼べる身体の異変は2018年頃からいくつかあった。

 まず顕著なのが不眠だった。どうしても夜眠れない、夜中になるほど目が冴えるなどの傾向が毎日出てくるようになった。当時は無理矢理にでも寝ようとしていたが、それでも何度か目が覚めたり、いっそ開き直って朝まで起きていたりと、よく眠れているとは言えない有様だった。当時は睡眠薬を飲んでいなかったが、飲んでいたとして不眠が解決していたかどうか怪しい。ただ不眠だけだとそれだけで統合失調症の前兆だとはもちろんわかるわけがなかったので、当時はそういうものだと思って放置していた。

 次に頻発するのが原因不明の頭痛だった。最初は普通の軽い頭痛だったが、数ヶ月経った頃からズキズキ痛むようになり、さらには頭が割れんばかりの痛みで立っていられないことがあった。頭痛の頻度はまちまちだったが、そのせいで痛みが引くまで横になって動けないときがままあった。当時は痛みに耐えながら頭痛の原因をいろいろ調べていたりしたが、片頭痛の特徴とは違うし、だからといって普通の頭痛の痛みではなかったので、打つ手なしのまま横になって呻くことしかできなかった。

急性期症状

 2020年3月頃、私は徐々におかしくなっていった。

 決定打となったのが3月20日だった。そのとき私は表明という名のブログ記事を書いたのだが(現在は削除済み)、そもそもあれを書いたきっかけといえば、頭の中で不特定多数の人間が自分に対する噂話をしているのを振り払うためだった。何を言っているのかこのままだとわかりにくいと思うので噛み砕いて説明すると、不特定多数の人間の中心は、ネットサーフィンなどで私が見ていたTwitterのアカウントのことだ。不特定多数なので、傾向、方向、性質などをひとつにしないバラバラの集まりとしての多数だ。それらのアカウントのツイートを見ているうちに、まるでツイートのひとつひとつが自分に対する噂話や邪推のように思えてきて、その想念を頭から振り払えなかった。振り払えずに頭の中でぐるぐるとうるさく渦巻いていたので、無理矢理にでも振り払うための苦し紛れの策が文章を書くことだった。

不眠でずっと眠れず、現実と虚構の区別も曖昧に痺れ、そのせいでクソデカい悪意/陰謀/被害妄想/思考盗聴/視線集中/印象操作/罪悪感/分裂感と戦ってた気がするけど全部気のせいになった 全部""力""で優しくなってしまった 優しさは力なので いくらでも優しくできる気がする 穏やかで心地いい
https://twitter.com/516kmay/status/1241733333773475841

 3月下旬からすでにおかしくなっていたが、4月下旬になると私は完全におかしくなり、自分をコントロールできなくなっていた。私は完全に混乱していた。妄想と現実の境目があやふやになり、自分の思考が世界や他者へ漏洩し続ける感覚に陥っていた。思考が盗聴されるような感覚を本当に覚えたのもこの時期で、当時の私は盗聴を防ぐために自分の部屋の盗聴器が仕込まれているであろう時計の電池をすべて抜いたり、盗聴されていることを逆に利用して独り言や自前の暗証コードを呟いていた。自分にとって示唆的な歌詞を聞き取るために音楽を大音量でかけたり、裸足で近所の公園や池に赴くことが多くなった。ジャングルジムを登ったり降りたりすることで、私は日本政府にいる公安秘密組織に監視されている事実と、中国で作られたゲームアプリを通して中国のある組織に監視されている事実と、それらをなんとかしてくれるであろう「聖なる存在」にとっくに気づいている事実などを頭の中で比べたり考えたりしながら、ときどき公園を行き帰りしていた。

 このあたりで私の異変に気づいた親が私を市民病院へ連れて行くのだが、ほとんど効果がなかった。受診して薬はもらったものの、それでも私が自分のことを正常だと思っているから、薬を飲もうとしないのだ。当然私の状態はますます悪化していった。

 私の世界は急速に壊れ、コントロールできない妄想によって筆舌に尽くしがたいほど変容していった。当時の私の世界を支離滅裂な妄想のまま具体的に述べるとするなら、まず人類は自分の老いを完全にコントロールし、子どもから老人まで姿を変えることができるようになった。老いを自分でコントロールできるなら当然その先にある死をもコントロールできるようになり、人類にとっての老化による死は任意制になった。さらに人類は全体的に享楽的になり、性に奔放になった。自分の性自認性的指向に関係なく他者とセックスするようになり、さらには自分の子どもやきょうだいや両親なども性別関係なく乱交や近親相姦をするようになった。そのせいで、人類は生まれながら精神的な選択的両性を得ることができるようになったが、代わりに自分の身体的な性は個人の所有権ではなくなった。

 どういうことかというと、たとえば生物学的男性Mと生物学的女性Fがいるとして、その二人がセックスをすると、二人の精神が入れ替わる。つまり本来のMはFの身体、本来のFはMの身体に入れ替わる。これは同性の場合でも同じように適用される。つまりセックスをするとお互いの精神が入れ替わることになる。このルールが知らずしらず世界に適用されたために、人々は大混乱に陥った。それによってさらに人々は自分の求める身体になるために他人とのセックスを強く求めるようになり、ついには自分の身体が「オリジナル」でないことに何の違和感も持たなくなっていた。私は自分の身体を取られまいと部屋に引きこもり、Twitterやネットニュースなどで必死に周囲や世界の動向を探っていた。

いまだから白状するけど本当に被害妄想激しかったときは(リアルで)周りの人間が悪意の塊だと感じてしまいがちだったから正気を保てられていた自分をめちゃくちゃ褒めていた
https://twitter.com/516kmay/status/1253658143902466049
神はジョークで死んだ 神話もジョークで死んだ 超人と子どもと夢はジョークで覚醒めた ジョークが好きな私は表明と遺書を書いてタイムスリップでキリストよりも先に死んだ 大アルカナの吊された男はジョークで自殺した もちろんこれはジョーク ジョーク ジョーク ダンス ダンス ダンス!
https://twitter.com/516kmay/status/1254742061619638273
実はみなさんの罪悪感が私の生ける屍の身体性を取り戻すのにとても助かっています みなさんの見ている〈世界のあるがまま〉を語ることでもっと私を助けていただけると幸いです もちろんこれは悪意のないジョークです 大切な話だから秘密にしていました 許してくださいね
https://twitter.com/516kmay/status/1254744632937738240
入院、そして退院

 私はそんな世界に耐えかねていたのと、壊れた世界を救う天啓を突然得たことで居ても立ってもいられなくなり、夜に近所の公園や池へ飛び出した。そこで大声を出して叫びまわっていたことで、見回りに来ていた警官に呼び止められ、事情を聴取するために私は警察署まで連れて行かれることになった。警察と話していても要領を得ない回答ばかりしていたので、しばらくしてからまた別の車で病院に連れて行かれた。病院で私の診察の番が来たとき、そこで待っていた医師からいくつか質問された。

医師「妄想があったりする?」

私「いいえ」

医師「たとえば幻聴が聞こえたりは?」

私「いいえ(聞こえていたが自分の身を守るためいいえと答えた)」

 質問に答え終わった私は看護師に簡易ベッドへ寝かされ、目が覚めたときは見知らぬ個室にいた。そこが精神病院だと知るにはもっとずっと後の話になる。

 以上が私が統合失調症と診断され入院した際の経緯である。入院したのは5月はじめで、それから4ヶ月近く経った8月26日まで、私はその病院で入院していた。病院ではちゃんと薬を飲まされていたため、しばらくして精神は安定してきた(2日ほど身体拘束はされたが)。退院までずっと閉鎖病棟にいたため、出入り口が常時施錠された状態で自由に出入りできずスマホも持ち込めなかった。病院内は本当に退屈で苦痛だったため、もうあそこには二度と戻りたくない……。

 現在、発病してから1年ほど経ち快復に至り、特に再発もなく薬も続けられているためそのまとめとして書いた。もしも何かの役に立つのなら幸いである。

20200314の日記

大まかな方針

 唐突に日記を書いてみようかなと思う。目的は主にふたつあって、ひとつ目は日常的に考えていることの整理をつけること、ふたつ目は不定期に突如浮かんでくるアイデアや疑問の言語化につとめること。振り返りやすさのためにもとりあえずはこの二点を心がけてみたい。もしかしたら後になって目的が増えてきたり、方針から大きく逸れたりするかもしれない。まあそのときはそのときということで。

 それから、思考の整理をつけているときの論理展開が大ざっぱだったり、過剰な認知の歪みが混ざっていたり、論旨不充分や考えることに疲れて話が尻切れトンボに終わったりする可能性が個人的に無視できないので、そのときは次回へ持ち越したり、もしも余力があれば気づいた箇所から訂正や注釈をしたい……といってもできるかな……? うっかり思いつめると精神ごりごり削れそう。といっても基本的に無理せず気が向いたときに書くつもりではある。

経験由来の一般化について

 最近気がついたことに、私自身は経験に由来する主張や見方を一般化することにかなりの抵抗感を覚えるというのがあった。

 ここで言う経験由来の一般化された主張や見方とは、広義の意味で言えば「(当人の)この経験から、人は誰もがみなこのようなことが当てはまる(Ⓐ)」という論調のことだ。強調部分が一般化の箇所を指す。語弊を避けるために具体的な例文を挙げるなら、「髪を染めている者ならばみな不良だ(①身体的特徴について)」とか、「日本人ならばみな勤勉である(②人種について)」とか、「特定の地域や環境にいる人間ならばみなこのような性格になっている(③地域性について)」とか、ともすればステレオタイプな認識や固定観念を生み出しかねないような見方を私は想定している。 *1

 しかし他方でこれらの主張は論調Ⓐの具体例としては非常に単純な形であり、想定として例示するには不適切ではないかという向きもあるだろう。その疑問はもっともではあるし、必ずしも①~③の例だけにかぎらず、ほかの場合もあるだろうと断ったとしても、私が逃れられないバイアスに囚われていて、わざわざ抵抗感を強く覚える具体例のみ提示している可能性も否定できない。

 ではなぜ私は仮にそこまで懸念していたとして、ことによると具体例を非常に単純な形としてしか出せないのだろうか? これは意外と簡単な説明が見つけられて、抵抗感を覚えるがゆえに頻繁に避けざるをえなくて、頻繁に避けざるをえないから具体例として出しうる引き出しが非常に少ないから、と理由を置けばひとまずの納得がいく。納得がいくからといって必ずしも妥当とはかぎらないが、さらにこの理由に対する「なぜ?」を敷衍させるためのエネルギーが残っていないのもあってとりあえずはこの線で仮定することにする。自己言及的な思考は余力がないとかなりしんどい……。

           *

 論調Ⓐのような見方をできるかぎり避けようとしているといっても、そういう意識的な努力をしてるから自分のことを殊勝だと思っているというよりは(というかそんなことは心底どうでもいいし、見当はずれですらある)、そうでもしないと精神的な抵抗感を受けつづけるので望む望まないにせよと避けざるをえないし、その気配が強い主張に出くわすと自然とそれに当てはまらない例外をできるかぎり考えたい欲求に駆られる、といったほうが私の実情に即している。だからといって、私がその論調のすべてを避けられているとはとても思えないし、もしかすると私自身も論調Ⓐのような主張をどこかでしているかもしれない。少なくとも私は、自分が避けたいとつねづね思っているからといって、必ずしも避けられるとはかぎらないと考えている。

 というか、私の根底的な考え方のひとつに「当人の体感や経験は必ずしも他者の体感や体験と共有されるとはかぎらないし、もしもそのタイミングがあったとしても共有しようとするかどうかの自己決定権は当人自身にゆだねられる」という持論があるので、それが論調Ⓐに含まれる「誰もがみな」というフレーズとしばしば対立してしまうんじゃないかと予想している。これについては考えがまとまったらくわしく話してみたい……といっても非常にむずかしそうではあるが……できるか……?

           *

 これまで私は論調Ⓐに対してネガティブな側面を強調して話したが、だからといってネガティブな側面ばかり話すのもどうかと思うので、次回か次々回にはポジティブな側面についてなるべく話せるようにしたい。とはいえ、自分が抵抗感を覚えるものについてポジティブな側面を考えるのは非常にしんどいものがある。非常にしんどいのだが、これは私にとって考えないままにしておくほうがかえって気がかりになるぐらいで、なにも論調Ⓐのすべてが私にとって抵抗感を覚えるわけでもなく、かつ論調Ⓐに当てはまる主張だからといって、それは必ずしも上記で示されたようなネガティブな側面だけ表すとはかぎらないと思うからだ。それに論調Ⓐでは言い切りの形だったが、それとは別に疑問形ではどれほど許容できるのかとか、そのあたり何が線引きになっているかというのも含めて考えをいい感じにひろげてみたい。

           *

 そういえば安部公房が偏見について興味深いことを書いていたので、それを引用して今回は結びにつなげたい。

 だからといって、偏見を正常化しようと言っているわけではない。そのひずみ、、、が微小であったり、また現実との衝突をおこさないような場合、誰もそういうものをとくに偏見とはよばない。偏見というのはそのひずみ、、、が蓄積され、現実との衝突が目立ってきたときに、はじめてつけられる名前である。微量なら薬だが、大量になれば、「毒薬」の黒いレッテルが貼られるというわけだ。偏見はたしかに毒薬の要素がある。
 要素はあるが、しかし偏見即毒薬と言いきってしまうこともできないのだ。ひずみ、、、が蓄積されて出来たエネルギーは、一方ではおそるべき思考の停滞、認識のステロタイプをうみだすが、同時に認識革命の原動力になるのである。作用と反作用は、切り離してばらばらに存在させることはできないのである。
 つまり偏見の克服とは、偏見をただむやみに否定することではなく、その正体を明るみにだし、正見との関係を法則的に把握して、その衝突からおこるエネルギーを制御し有効に利用することでなければならないのである。
安部公房「ヘビについて Ⅲ」『砂漠の思想』講談社文芸文庫 1993年 pp.27-28
一息で言えば

 結論。もちろん一般化された経験則を利用することもあるし、けっして参考にならないわけでもないが、だからといって私は必ずしも一般化された経験則を信用するわけではない(信用することもある)。

 今日はひとまずここまで。機会があればまた次回。力みすぎたのか疲れた……次はもっと力を抜く。

*1:これらの例示にはほかにジェンダーの話題も含まれると考えられるが、ここでは社会的なあれこれについて言及するのを目的としていないのと、考察がおろそかなまま上記のような経験についてのトピックとジェンダーを結びつけて話すことがはたして本当に妥当なのかをまだ判断しかねているので、留保を兼ねて割愛した。

二度目の金縛り

 十五日の深夜、二度目の金縛りに遭った。ただほんとうに心霊現象かどうかはわからない。単に明晰夢の一種であるようにも思える。

 タイミングがいいのでWikipediaの金縛りの項目をなんとなく読んでいたら、医学的には睡眠麻痺と呼ばれているのを知った。それに、金縛りの前兆についての記述が一度目と二度目のときの自覚症状によく思い当たった。

 二度目のときも、ふっと目だけ冴えたかと思うと、ほどなくして耳元でゴオゴオと風が唸るような耳鳴りが聞こえてくる。すると、身体全体に何かがのしかかったような強い圧迫感がかかり、そのまま身体が石のように固まって動かなくなった。指一本どころか視線すら動かせず、とっさに声を出そうとしても、まったく声が出てこない。やがて、半開きの手に誰かの細い腕を握っている感覚と、聞き取れるかそうでないかの低さでボソボソ囁くような声が耳元で聞こえてきた。

 こんな状態がしばらくつづいていたので、(なんとかできないかな……)なんて思っていると、 「コ・レ・デ・イ・イ……」というかすれ声が聞こえてきたので、あらん限りの喉の力で「いいわけあるか!」と叫んだ(念じた)ところで、金縛りは解除された。どっと脱力感があふれ、気づいたときには早朝だった。その後しばらく放心していた。寝つけない時間からそのまま金縛りに移っていったような記憶しか曖昧に覚えてないから、ほとんど寝た気がしなかった。

 とりあえず、今後金縛りについては睡眠麻痺というキーワードを手がかりに調べてみようと考えるきっかけになったので、ためになる体験だったと思う。だからといって、あの感覚を次も味わうのはごめんこうむりたい……。

デザインCSS覚え書き

 そこそこの頻度で自分が使っているサイトやアプリなどの設定を最適にするためにいじり倒すのが好きなんですが、それが原因で誤って設定をまっさらにしてしまうことも少なからずあり、このブログのデザイン設定も暇つぶしでなんとなく触っていたら、テーマの変更でデザインCSSが破棄されることを忘れたまま勢いで変更してしまって「あー……」となりました。たいていそのときは直前までの記憶を手がかりに元に戻してるんですが、それに取り組んでるあいだの心境はなんというかとにかく"無"です。時間の無駄すぎる……。

 さいわいCSSの知識がそこまでじゃなかったのと、簡単な設定しかしていなかったので忘れないうちに手早くやっておきたい一方で、「再発防止のために設定の手順をブログに書いておくのもいいのでは?」という案も思いついたので、その線でやっていこうと思います。これで未来の私が懲りずにやらかしてしまい復旧で泣きを見る世界線は完全に死滅したといえます。逆に言えば書き残してるんだからいくらでも失敗できる!

テーマを選ぶ

 これを機にはてな公式テーマのSmoothを使ってみようと思います。シンプルかつ見やすくていいですねこれ。本当はテーマも自分でカスタマイズしてみたい気持ちがなくはないんですが、いまのところさっぱりわかってないのと面倒くさいのとで後回しにしようと思います。いつかやる。

フォントの種類を指定する

 前提として今回主に貼るコードの種類はCSSなので、ブログにある(ダッシュボード→)デザイン→カスタマイズ→デザインCSSを開いて、そこにそのままコピペするだけです。

f:id:ranunculin:20190705233604p:plain

 CSSfont-familyを使って表示させるフォントの種類を決めます。font-familyの詳細についてはここのページに任せます。三時間ぐらいさんざん迷ったあげく、フォントは游ゴシックに決めました。

/*フォントの種類を指定*/
body {
font-family: "游ゴシック Medium", "Yu Gothic Medium", "游ゴシック体", "YuGothic", "ヒラギノ角ゴ ProN W3", "Hiragino Kaku Gothic ProN", "メイリオ", "Meiryo", "MS ゴシック", "Verdana", sans-serif;
}

 一度やってみたかったんですよねこういうコード表示形式。「游ゴシック Medium」と「Yu Gothic Medium」がWindowsへの指定、「游ゴシック体」と「YuGothic」がMacへの指定になっています。どうしてWindowsに対する指定に「游ゴシック」だけでなくMedium が追加されてるかというと、Windowsではfont-weight(文字の太さ)が通常の場合だと細くかすれてしまうからです。 *1 これが嫌で一時はメイリオにしようかと思ったんですけど、その必要がない解決法を見つけられてよかったです。

 同じフォントの指定でも日本語と英語を併記するのは、使用するブラウザによってはどちらか一方しか認識してくれない場合があるからです。ただし、今後の環境によってはどちらか片方だけでいいかもしれません。 *2 游ゴシックのほかに複数のフォントが指定されているのは、webページを見ている個々人のOSによって搭載されてるフォントが異なるからで、もしも游ゴシックが利用できない環境があった場合、それをカバーするために別のフォントが用意されています。左から記述されてるフォントほど表示の優先順位が高いです。 *3

フォントサイズと行間を指定する

 .entry-content p {}を使ってフォントサイズと行間を調整します。.entry-content p {}というのは「記事内のpタグ内(本文)に対して」と解釈しておけば特に問題ないと思います。括弧内でfont-familyと同じように記述していきます。

/*フォントサイズと行間の指定*/
.entry-content p {
font-size: 17px;
line-height: 1.75;
}

 上から順に、font-sizeでフォントサイズ、line-heightで行間を調整できます。調べてみるとフォントサイズは16px以上が読みやすいとあったので17pxにしてみました。読みやすい行間は0.7行とあったので、それよりもほんのちょっと広い0.75になるように値を1.75にしています。 *4 line-heightの値の指定はpxやemなどの単位を付けた決め方が数パターンありますが、単位なしで書くと小要素への思わぬ影響を防げるのでそれを採用してます。 *5

終わり

/*<system section="theme" selected="smooth">*/
@import "/css/theme/smooth/smooth.css";
/*</system>*/

/*フォントの種類を指定*/
body {
font-family: "游ゴシック Medium", "Yu Gothic Medium", "游ゴシック体", "YuGothic", "ヒラギノ角ゴ ProN W3", "Hiragino Kaku Gothic ProN", "メイリオ", "Meiryo", "MS ゴシック", "Verdana", sans-serif;
}

/*フォントサイズと行間の指定*/
.entry-content p {
font-size: 17px;
line-height: 1.75;
}

 終わりです。ブログのデザインCSSに貼り付けたときの見た目としては上記のようになると思います。個人的にはすごい良くなりました。ほかに何か追記事項があれば気が向いたときに書くと思います。

参考サイト

 参考サイトは以下になります。ありがとうございました。

フォントの種類を指定する

font-family-スタイルシートリファレンス
フォントの選び方-伝わるデザイン
おすすめフォント-伝わるデザイン
CSSでのフォント指定について考える(2014年)
font-familyの書き方まとめ:CSSでフォント種類を指定しよう
WEBサイト構築時によく使うゴシック体のフォント指定

フォントサイズ・行間・余白を指定する

font-size-スタイルシートリファレンス
line-height-スタイルシートリファレンス
CSSのセレクタとは?覚えておきたい25種類と書き方
テキストを読みやすくする5つのポイント
Webサイトを読みやすくする、「行間」「段落」「カーニング」の法則
文章-伝わるデザイン
1-1-03. 読みやすい行間は0.7行である
【CSS】line-heightで行間を調整する方法:おすすめの値は?
【CSS】CSSのline-heightで単位を指定しない理由 - Qiita

*1: WEBサイト構築時によく使うゴシック体のフォント指定から引用。「Windowsへの指定は単純に「游ゴシック」だけではなく「Medium」が追加されています。これは、Windowsではfont-weightが通常の場合は細くかすれてしまうためです」

*2:同記事から引用。「ヒラギノメイリオは、日本語での指定と、英語での指定の2つが書かれています。これは、ブラウザによってはどちらか一方しか認識しないものが存在するためです。しかし、最近は改善傾向にあるようで、今後はどちらか片方だけでよくなるかもしれません」

*3:同記事から引用。「font-familyでは、指定されているフォントを左から順番に確認し、入っているフォントが見つかった段階でそのフォントを使用して表示されます。 (左に記述されているフォントほど表示の優先度が高いということです。)」
  font-familyの書き方まとめ:CSSでフォント種類を指定しようから引用。「なぜ複数書くのかというと、OSによって入っているフォントが異なるからです。言い換えると、Windowsなのか、Macなのか、iPhone/iPadiOS)なのかで搭載されているフォントが異なるのです。Macにしか入っていないフォントを指定しても、Windowsパソコンからはそのフォントでウェブページを見ることはできません。そこで複数のフォントを書いて対応します。MacでもiPhoneでもiOSでも使えるフォントを複数個並べてカバーするというイメージですね」

*4:テキストを読みやすくする5つのポイントから引用。「一般的に、行間(行と行のあいだ)はフォントサイズの75%前後が適切だと言われています。CSSの設定でいうと、line-height : 1.75 くらい」
 1-1-03. 読みやすい行間は0.7行であるから引用。「文章を読む際には、文字の大きさに加え行間も重要な要素となる。行間が狭い文章は、「読み進む際に上下の行がノイズとなる」、「改行時に視線が同じ行に行ってしまう。」などの問題点を持っている。さらに、狭い場合だけでなく、広すぎる場合も読みにくいという調査結果も公表されており、「読みやすさ」の、許容範囲は0.4~0.9行である」

*5:【CSS】line-heightで行間を調整する方法:おすすめの値は?から引用。「emや%よりも「単位なし指定」がオススメです。なぜかというとemや%だと親要素で計算された行高が、子要素にそのまま引き継がれてしまうからです。つまり、親要素のフォントサイズが40px、子要素のフォントサイズが20pxの場合にも、子要素には親要素と同じ行間が適用されてしまうのです」

夢の内容

 小説の描写の練習も兼ねて、これ以上記憶が変質してしまう前に書き残しておこうと思う。特に夢は鮮度が変わりやすい。あれほど精彩に感じられた現実感の肌ざわりが、数分もしないうちにほろほろと崩れながらモノクロに色褪せていく。

 今回の夢はかなり変わっていた。夢のなかにいながら、これからどこで何が起こるのかの内容をあらかじめ知らされている状態だった。「これは夢である」という自覚はなかったので、明晰夢ではない。言うなればその夢のなかで限られる予知や既視感に近かった。すでに知っていることになっていたし、もう体験したことになっている。直観的に、その夢の世界で二周目のリスタート地点にいるのだとわかった。

 夢の場所はこうだった。基本的に学校と似た建物にいる。妙に暗い廊下は蛇のようにくねっていて、カーブや曲がり角につづく死角が多い。ワックスのつやを失った廊下のひろさは七メートルぐらいで、通路よりもむしろ道路という感じだった。廊下の両脇に面する壁の片方は、曇り空の淡い光を感じられるガラス窓が申しわけ程度に設置されているだけで、もう片方の壁には窓のない教室の引き戸が短い間隔で設置されていた。外からでは教室のなかは確認できず、すべての引き戸は隙間なく閉められている。引き戸には覗くための窓の代わりに、小さい三角形を組み合わせてできた直角三角形の黒い模様がきざまれている。

 ひろいからか、廊下には人が多くいた。ほかの誰かと喋る人、走りまわる人、立ち止まっている人。夢の内容、つまり予知内容はこうだった。これから殺人鬼が現れて、魚の腹のように輝く大ぶりのナイフで廊下にいる人たちを殺してまわる。それを一周目でも防ごうとしたが、失敗した。予知の最後の光景には、血が滴って乾かないナイフの刀身と、床にひろがる血の海が見えていた。

 予知内容にしたがって、廊下をずっと進んだ先にある、突き当たりのトイレまで走ってたどりついた。トイレに入ると、水色のタイルが敷き詰められた空間にアースグリーンの作業服を着た清掃員がいたが、それが殺人鬼の化けた姿だった。殺人鬼はモヒカンショートが目立つ四〇代ぐらいの恰幅のいい中年男性で、肉づきのいい顔には子供すら喜ばせるような笑顔を浮かばせていた。風船配りにはこれぐらいの笑顔が必要だと言わんばかりに。正体を問い詰めると、殺人鬼はいっそうにこにこ笑いながら、すばしこく動きまわりこちらの隣をすり抜けてトイレから出て行った。これから殺人がはじまる。

 急いで殺人鬼を追いかけたが、彼はこちらに向かって手を振りながら、後ろ向きで廊下の人だかりの隙間を縫うように走っていった。背後の誰かにぶつかりそうになると、寸前でかわしてその人の肩を馴れ馴れしく叩くほどの余裕を見せる。追いかけているだけでやっとなのに、殺人鬼はくねくねうねった廊下のカーブや曲がり角の死角を活かしてどんどん逃げまわる。それで直感的にわかったのは、殺人鬼もこちらと同じような予知内容を共有しているということだった。

 予知にあった一周目での殺人鬼は、廊下に現れるやいなや手当たりしだいに通りすがりの人たちを切りつけ殺してまわっていた。それが今度の二周目では、こちらの気を引かせるサインを送りつづけながら逃げてばかりで、肝心の人殺しを行おうとしない。つまり、わざと人殺しを後まわしにしておいて、追いかけているこちらを充分に引きつけながら殺人をしたい場所から引き離し、好きなタイミングで撒いてから殺人に取りかかるつもりなのだと、まんまと誰もいない場所に置き去りにされたときにそう思った。予知まで使ったこちらの動きがさらに先回りされている!

 急いで隠れようと、すぐさま近くの部屋に飛びこんで避難した。殺人鬼はまだ近くにいるはずだった。丸腰だったうえに、殺人鬼にとっては、あえてこちらを無視してほかの人間を殺しまわるのも、先にこちらを殺してから本来の目的に取りかかるのも、どちらでも都合がいい。むしろ、後者のほうが合理的だった。

 避難した部屋は、思いきり墨を噴霧したような暗闇で静まりかえっていて、かすかに視認できたとしても何もない空間がひろがっていた。そこでじっと息をひそめていると、しばらくして閉めていた部屋のドアがとつぜん開け放たれた。ドアの先には教員らしき人間がいて、こう言った。「ほら、はやく帰ったほうがいい」

 そこで夢は覚めた。

(裏テーマである今日の書き方の縛りは、「一人称視点でありながら一人称代名詞をなるべく省略する」でした。難しかったです)