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備忘録。たぶん何も覚えていません。Twitter:@516kmay

個人的おすすめおいしいグミ9選

 最近私が食べているグミの中で「これはおいしい!!!!!!!!!!!!」と思ったものを独断で取り上げてゆきます。有名なグミも取り上げて比較的オーソドックスに選んでいますが、変遷激しく新旧入り乱れるグミたちの中で色褪せないものを集めたつもりです。私はハードグミ派なので紹介するグミも噛みごたえがハードなものに傾いてます。グミの値段は買ってきたコンビニでの数字をそのまま載せています。貼られているAmazonのリンクは基本的にお徳用です。



・明治 コーラアップ 100g(税込204円)

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 1980年に初めて日本で発売されたグミ「コーラアップ」をリニューアルした昔ながらのグミです。ハードな弾力とシンプルなコーラの風味が特徴。形はコーラの瓶を模してあって、その形状からハリボーのハッピーコーラとよく似ています。たまに2つを食べ比べてるんですが、それぞれの良さがあってなかなか甲乙つけがたいです。弾力は同じぐらいだとして、風味を求めるならハッピーコーラ、手軽さと味のシンプルさを求めるならコーラアップがおすすめです(値段としてはハッピーコーラの方が税込248円とわりと高め)。

 袋を開けるとコーラの香りが広がってくると同時に、ゼラチンの匂いがやや目立ちます。比較としてはハリボーのハッピーコーラにはそれがないです。食感はこりこりとしていて、噛めば噛むほどグミの弾力が歯を押し返しながら口全体にコーラの味がじわじわ溢れてゆきます。甘さはコーラの風味を邪魔しない程度に控えめです。発売から年数が経っているのもあって、安定感のあるグミとして楽しめるでしょう。

 ~5段階評価~
・風味:★★☆☆☆
・甘さ:★★☆☆☆
・硬さ:★★★☆☆
・弾力:★★★★★

・商品紹介:商品情報|株式会社 明治

明治 コーラアップ 100g×6袋

明治 コーラアップ 100g×6袋



UHA味覚糖 忍者めし 巨峰 20g(税込111円)

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 現代忍者たちの味方、そして尋常ではないハードグミとして知られている忍者めしの巨峰味です。忍者めし自体はいままでにも売られていましたが、パッケージが刷新されて再登場しました。ちなみにそれを期にもも味が新発売されています。

 袋を開けてみるとぶどうの香りがほのかに香るだけです。形は1.5㎝ほどの小粒で、グミの表面は薄い砂糖の膜でつるつるとコーティングされています。ピュレグミなどのパウダーコーティングとは違い、手に乗せても砂糖で汚れません。噛んでみると非常に硬いです。生半可な噛み方だと容易に噛み切れません。実際、食べてるときは味より弾力に集中してしまうほどです。慣れない方だと食べ終わる頃には顎が疲れてしまうかもしれません。それぐらいハードです。風味と比べて甘さは控えめです。

 ~5段階評価~
・風味:★★★☆☆
・甘さ:★★☆☆☆
・硬さ:★★★★★
・弾力:★★★★★

・商品紹介:【公式】UHA味覚糖 商品カタログ 忍者めし 巨峰



カンロ カンデミーナグミ スーパーベスト 72g(税込184円)

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 パッケージ右上のマラカス両手にサンバしてるおじさんが愉快なカンデミーナグミです。今回買ってきたのはコーラ味、サイダー味、オレンジソーダ味が入っている3種アソート版です。ちなみに以前はオレンジソーダ味の代わりにメロンソーダ味、エナジードリンク味、スポーツドリンク味などが売られていました。

 形としてはクネクネとした波型のグミで、表面には酸っぱいパウダーが全身にまぶされています。食べてみると先にパウダーの酸味を感じ、それから徐々にそれぞれの味が口の中に広がってきて、最後にじんわりと甘さがやってきます。パッケージの写真と味の種類からして炭酸飲料を意識しているのだろうと思われます。コシのある歯ごたえ抜群で、ハードグミの名にふさわしいほどの弾力を持っています。気になった方はぜひカンデミーナ!

 ~5段階評価~
・風味:★★★☆☆
・甘さ:★★★☆☆
・硬さ:★★★★☆
・弾力:★★★★☆

・商品紹介:カンデミーナグミスーパーベスト | カンロ株式会社

カンロ カンデミーナグミスーパーベスト 72g×6袋

カンロ カンデミーナグミスーパーベスト 72g×6袋



UHA味覚糖シゲキックス 強烈コーラ 20g(税込108円)

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 1度でも口にするとその強烈な刺激で嫌でも忘れられない、そしてまた尋常ではないハードグミ第2弾として紹介するシゲキックスです。今回買ってきたのはスッパレベル4(5段階評価)のコーラ味。他にはスッパレベル5のルビーグレープフルーツ味やスッパレベル2のソーダ味などがあります。1度食べていれば思い出すだけで唾液が出てくるこのグミですが、2012年を境に刺激がマイルドになっているようです。

 はじめて私が食べたときには三角錐の小粒が主流でしたが、最近はコイン型が主流みたいです。パッケージに入ってるのは8粒とグミにしては少なめ。酸っぱいパウダーでコーティングされている表面は軽石みたいです。食べてみるとツンとした酸味が舌を突き抜けます。冗談抜きで酸っぱいです。ただし酸っぱいのは少しの間だけで、酸味が消えた後はコーラの味がじんわり広がっていきます。グミ自体も非常に硬く、強烈な酸味とあいまって噛みごたえがあります。

 ~5段階評価~
・風味:★★☆☆☆
・甘さ:★☆☆☆☆
・硬さ:★★★★★
・弾力:★★★★☆

・商品紹介:【公式】UHA味覚糖 商品カタログ 超シゲキックス 強烈コーラ



春日井製菓 つぶグミ 85g(税込142円)

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 値段・量・味の種類のコストパフォーマンスが高いのでついつい手が伸びてしまうつぶグミです。実際140円で85gはグミとして破格です(例として値段÷グラムで割合を算出してみると、つぶグミが約1.65、大粒ポイフルが約2.26、シゲギックスが5.4)。1袋に5種類のアソートがあり、さらにパッケージごとに3種類のバージョンがあるので(現在売られているのはノーマル版の他につぶグミソーダつぶグミサンダーなどがある)非常に味のバリエーションが豊富です。

 袋を開けてみるとフルーティな香りがほのかに香ってきます。ビーンズ型のグミで砂糖で覆った表面はつるつるしています。ハードグミではありませんが食べてみると食感はちょっと硬め。噛んだ瞬間に果汁感のある味わいが広がってきます。しかし惜しいことには後味に砂糖の甘ったるさがかなり残ってしまうことです。ノーマル版はこれが顕著ですが、つぶグミソーダやつぶグミサンダーなどはノーマル版と比べてそれほど甘ったるさが目立たないです。それでも大粒ポイフルよりも安く量も5gだけ多い上に(ただしつぶグミサンダーのみ80g)味のバリエーションも豊富なので、買って楽しめる価値は十分にあります。

 ~5段階評価~
・風味:★★★☆☆
・甘さ:★★★★★
・硬さ:★★☆☆☆
・弾力:★★☆☆☆

・商品紹介:つぶグミ | 春日井製菓

春日井製菓 つぶグミ 85g×6袋

春日井製菓 つぶグミ 85g×6袋



・明治 GOCHIグミ 52g(税込111円)

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 大粒ザラメと大粒弾力食感グミが特徴的なGOCHIグミの紹介です。今回買ってきたのはグレープ味で、他には梅味が現在売られています。表面にパウダーをつけているグミは色々ありますが、ザラメをつけているグミは珍しい部類です。

 見た目はピュレグミと若干似ていますが、食べてみると食感は全然違います。ピュレグミの食感は果肉のようでGOCHIグミはコシのある弾力が強く出ています。噛めば噛むほど表面にあるザラメのジャリジャリした絶妙な食感とジューシーな果汁感を楽しめます。52gとボリュームがあり、噛みごたえもあいまって満足感が高いです。後味も酸味がさわやかです。

 ~5段階評価~
・風味:★★★★☆
・甘さ:★★★☆☆
・硬さ:★★☆☆☆
・弾力:★★★★★

・商品紹介:つぶグミ | 春日井製菓



三菱食品 ハリボー ゴールドベア 100g(税込248円)

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 グミ好きには知らない者がいないであろうハリボーグミです。コーラアップと差別化をはかるため今回はゴールドベアの方を紹介しています。ちなみに1922年にハリボーグミが発売されたので、2018年現在ではあと4年で100周年を迎えることになります。

 グミの形はクマを模していて、味はストロベリー、青リンゴ、レモン、オレンジ、パイナップル、ラズベリーと100gの量もあいまって種類豊かです。袋を開けるとカラフルな色合いとトロピカルな香りが広がってきます。食べてみると非常に噛みごたえがあり、噛めば噛むほどジューシーな果汁感を味わえます。弾力も強く、ハードグミとしてもってこいです。税込248円とグミとしてはわりと高めですが買えば必ず満足できるでしょう。

 ~5段階評価~
・風味:★★★★☆
・甘さ:★★★☆☆
・硬さ:★★★★☆
・弾力:★★★★★

・商品紹介:ゴールドベア|グミキャンディ100g/75g|ハリボー|三菱食品

ハリボー ゴールドベア 100g×10個

ハリボー ゴールドベア 100g×10個



カバヤ タフグミ 100g(税込194円)

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 ガッツリ内容量に大粒高弾力が魅力のタフグミです。黒いパッケージと100gというボリュームが目を惹きます。同じ100g台であるコーラアップやハリボーと比べて200円を切っているのもポイント。ジンジャーエール、コーラ、ソーダの3種ハードグミが合計20粒以上も入っているので、満足度としては群を抜くでしょう。

 グミの形は酸っぱいパウダーをまぶしたサイコロ型で、1辺1.5㎝もの立方体がゴロゴロ入っています。食べてみると硬くはないんですが弾力が非常に強いです。気を抜いて噛んでると歯がグミに押し返されます。くわえて炭酸を模したパウダーの強い酸味がツンと後を引きます。けっこうすっぱい。決しておまけ程度の酸っぱさではないです。ゴツいパッケージでゴツい量のゴツい弾力を楽しみたい方は買って損はないでしょう。

 ~5段階評価~
・風味:★★★☆☆
・甘さ:★★☆☆☆
・硬さ:★★★☆☆
・弾力:★★★★★

・商品紹介:タフグミ | グミ | カバヤ食品株式会社



・明治 大粒ポイフル 80g(税込181円)

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 いま私が1番推している明治の大粒ポイフルです。めちゃくちゃおいしいです。味のジューシーさでいえば数々のグミが己の覇を争うグミ戦国時代の中で最も先を行っているグミのひとつだと思います。グレープ、ラズベリー、レモン、キウイのアソートがありますが、どの味もあまさずおいしいので手が止まることを知りません。みずみずしい果実を噛んでいるようです。

 袋を開けるとそれぞれの味によるカラフルな色合いが目に入ってきます。見た目はビーンズ型でつぶグミと変わりないですが、味は全然違います。人工的な甘さが強いつぶグミと比べて、大粒ポイフルはジューシーな果汁感と果実本来のみずみずしい風味が噛むたび噛むたび口の中でどんどん溢れ出てきます。グミの中にそのまま果肉が詰まっているようで、食べるごとに果汁が舌の上で弾けます。

 特筆すべきはこれだけでなく、本家ポイフルよりもジューシーさと風味が勝っているところです。こればかりは2つ並べて食べ比べてみないとわからないこともありますが、実際に私が両者を食べ比べてみたところ、大粒ポイフルの方に軍配が上がりました。本家ポイフルよりも味がハッキリしています。とにかく1度は買って必ず食べてみたいグミだということは間違いないです。絶対イチオシ最高おすすめです。

 ~5段階評価~
・風味:★★★★★
・甘さ:★★★☆☆
・硬さ:★★☆☆☆
・弾力:★★☆☆☆

・商品紹介:1.4倍の食べごたえ!「大粒ポイフル 袋」新発売

描写の距離感について考える

[……]脇が玄関の屋根で、それが家へ接続する所が羽目になっている。その羽目の中に蜂の巣があるらしい。虎斑の大きな太った蜂が天気さえよければ、朝から暮近くまで毎日忙しそうに働いていた。蜂は羽目のあわいから磨抜けて出ると、一ト先ず玄関の屋根に下りた。其処で羽根や触角を前足や後足で叮嚀に調えると、少し歩きまわる奴もあるが、直ぐ長い羽根を両方へしっかりと張ってぶーんと飛び立つ。飛立つと急に早くなって飛んで行く。植込みの八つ手の花が丁度咲きかけで蜂はそれに群っていた。自分は退屈すると、よく欄干から蜂の出入りを眺めていた。
志賀直哉小僧の神様・城の崎にて』新潮文庫 p.29-30)

 簡潔明瞭な文体で知られる志賀直哉の短編『城の崎にて』の中で、描写の鮮やかさが顕著に出ているのはまずここだろう。この一節について少し話してみたい。

 距離感、この場合ではマクロとミクロの世界の対比という点で注目してみる。第一文で家の様子が語られている。そこに蜂の巣があることを二文目で知る。ここまでは詳しく書かれようと彼の視認できる風景で、マクロの世界にある。しかし、三文目から彼の眼のピントは急激に絞られ、世界の様相は一気に変わる。《虎斑の大きな太った蜂》という、模様や大きさまで判別できるミクロな対象へと描写が移る。

 さらに顕著なのはその後だ。蜂は羽目のあわいから出て来る。そして玄関で《触角を前足や後足で叮嚀に調え》る。蜂そのものだけでなく、蜂の足や触角の動きまで詳細に書かれている。彼の眼は緊張を保ちながら、蜂のミクロな世界を眺めつづける。蜂は羽根の付け根を震わせて花まで飛んで行く。逆に言えば、志賀直哉の眼がミクロの世界で生きていた蜂を、家や景色というマクロな世界にまで接続させ、ありありと浮かび上がらせる。

 この描写ばかりではない。ついで鼠についての描写がある。

[……]或所まで来ると橋だの岸だのに人が立って何か川の中の物を見ながら騒いでいた。それは大きな鼠を川へなげ込んでいるのを見ているのだ。鼠は一生懸命に泳いで逃げようとする。鼠には首の所に七寸ばかりの魚串が刺し貫してあった。頭の上に三寸程、咽頭の下に三寸程それが出ている。鼠は石垣へ這上がろうとする。子どもがニ三人、四十位の車夫が一人、それへ石を投げる。却々当らない。カチッカチッと石垣に当って跳ね返った。見物人は大声で笑った。鼠は石垣の間に漸く前足をかけた。然し這入ろうとすると魚串が直ぐにつかえた。そして又水に落ちる。鼠はどうかして助かろうとしている。顔の表情は人間にわからなかったが動作の表情に、それが一生懸命である事がよくわかった。
(前掲書 p.31-32)

 志賀直哉は最初人の騒いでいる様子を《或所》で眺めているだけだ。ここでも視線は人の様子から鼠の動作にまでピントが絞られる。《或所》から眺めている彼は鼠の首にある魚串を仔細にとらえ、《鼠は石垣の間に漸く前足をかけた》のを凝視する。このとき彼の眼はまさしく顕微鏡のように機能している。人の様子というマクロな世界から鼠の様子というミクロな世界へ急激に接近する距離感の差が、彼の簡潔な文体とあいまって描写を明瞭に際立たせている。

[……]自分は踞んだまま、傍の小鞠程の石を取上げ、それを投げてやった。自分は別に蠑螈を狙わなかった。狙ってもとても当らない程、狙って投げる事の下手な自分はそれが当る事などは全く考えなかった。石はこツといってから流れに落ちた。石の音と同時に蠑螈は四寸程横へ飛んだように見えた。蠑螈は尻尾を反らし、高く上げた。自分はどうしたのかしら、と思って見ていた。最初石が当ったとは思わなかった。蠑螈の反らした尾が自然に静かに下りて来た。すると肘を張ったようにして傾斜に堪えて、前へついていた両の前足の指が内へまくれ込むと、蠑螈は力なく前へのめって了った。尾は全く石についた。もう動かない。蠑螈は死んで了った。
(前掲書 p.35-36)

 ダメ押しにもう一節引いてみる。まるで昼間に見てそのままはっきりと書いたような描写だが、場面は薄暗い夕方だ。何気なく川の流れを眺めていた志賀直哉は蠑螈を見つけて驚かそうと石を投げた。彼の眼は石の軌道に沿って急激にピントが絞られる。薄暗い川べりで蠑螈の尾や指までもが見える。景色というマクロと蠑螈というミクロの世界の距離感の差が激しいほど、描写による彼の眼と蠑螈の距離は限りなく接近する。彼の眼には蠑螈をはじめとした微細の鮮明と躍動しか映っていない。この瞬間、彼の眼は非人間的な精度で蠑螈の死をとらえる。

 距離感が強調されるほど、描写は平面的ではなくなり、対象には奥行きという襞が生まれる。描写による立体感は先天的に表現できるわけではない。何がどこにあるのか、あるいはどこになくてはいけないのかという空間の感覚をきめこまかく検討しなければならない。さらに言ってしまえば、具体的な描写によって配置された対象たちが、それぞれ「変化の可能性」という想像の余地に包まれることではじめて物や生物としての様相を保つ。

 もちろんこれは「変化しない」という可能性も含まれる。しかし同様に「変化する」という可能性も対等に含まれるだろう。石を投げられる直前の蠑螈は生きていたかもしれなかったし、あるいは石に当たらなかったかもしれない。死んだ蠑螈はそのまま石の上で横たわりつづけるかもしれないし、何かのきっかけで川に流されるかもしれない。蠑螈の様相そのものに可能性を発見するのではなく、「変化の可能性」が蠑螈にまとわりついているのを発見する。このとき、蠑螈は描写の対象であると同時に次の可能性のための媒体である。

[……]私は微かな好奇心と一種馴染の気持から彼等を殺したりはしなかった。また夏の頃のように猛だけしい蝿取り蜘蛛がやって来るのでもなかった。そうした外敵からは彼等は安全であったと云えるのである。しかし毎日大抵二匹ずつほどの彼等がなくなって行った。それはほかでもない。牛乳の壜である。私は自分の飲みっ放しを日なたのなかへ置いておく。すると毎日決ったようにそのなかへはいって出られない奴が出来た。壜の内側を身体の附着した牛乳を引き摺りながらのぼって来るのであるが、力のない彼等はどうしても中途で落ちてしまう。私は時どきそれを眺めていたりしたが、こちらが「もう落ちる時分だ」と思う頃、蠅も「ああ、もう落ちそうだ」という風に動かなくなる。そして案の定落ちてしまう。それは見ていて決して残酷でなくはなかった。しかしそれを助けてやるという私の倦怠からは起ってこない。
梶井基次郎檸檬新潮文庫 p.214)

 梶井基次郎の短編『冬の蠅』から一節を引いてもう少し話してみる。着目点はやはり「距離感」だ。しかしだからといって前の志賀直哉と共通した話が保証されるわけでもない。ただ設定する出発点のみが同じにすぎない。

 梶井基次郎の眼には彼自身の情感が多分に含まれている。彼の眼と蠅のあいだには情感を媒介とした心理的な距離感がある。彼が蠅を凝視しているとき、彼の情感は蠅と近づいたり離れたりする。《私は時どきそれを眺めていたりしたが、こちらが「もう落ちる時分だ」と思う頃、蠅も「ああ、もう落ちそうだ」という風に動かなくなる。》の通り、彼の眼はマクロからミクロの世界にピントを急激に絞る代わりに、彼自身の情感を蠅と急接近させる。牛乳壜でもがく蠅と彼の情感は一体化している。

 しかし次の瞬間には彼は蠅を助けることに関心を持とうとしない。《それを助けてやるという私の倦怠からは起ってこない》のだ。このとき彼の情感は蠅から離れ、ふたたび彼自身の心境へと戻ってゆく。彼の眼が対象へピントを絞るとき、彼自身の情感も連動して対象へと接近する。そしてこの場合、蠅の変化に応じて彼の情感の距離感も変化する。

 崩れかけた煉瓦の街。その狭い通りには、黒い着物を袖長に着た支那人の群れが、海底の昆布のようにぞろり満ちて淀んでいた。乞食らは小石を敷きつめた道の上に蹲っていた。彼らの頭の上の店頭には、魚の気胞や、血の滴った鯉の胴切りが下っている。そのまた横の果物屋には、マンゴやバナナが盛り上ったまま、鋪道の上にまで溢れていた。果物屋の横には豚屋がある。皮を剝れた無数の豚は、爪を垂れ下げたまま、肉色の洞穴を造ってうす暗く窪んでいる。そのぎっしり詰まった豚の壁の奥底からは、一点の白い時計の台盤だけが、眼のように光っていた。
横光利一『上海』岩波文庫 p.11-12)

 新感覚派の作家で知られる横光利一の表現は、《対象そのものをリアリスティックに追求し表現するにふさわしい文章でなく、対象から触発された感覚や心理やイメージを知的に再構成し動的な新鮮な感覚的表現をつくりだすこと自体を目的とするところの新感覚派の文章(前掲書 小田切秀雄解説 p.318)》に支えられている。ここでも「距離感」に着目してみる。何と何が近くなり、あるいは離れるのか、距離感の変化によって何が見えてくるのか、関心はそれだけしかない。

 横光利一の眼が向けられるとき、そこには彼自身の感覚が対象に接近している。しかし彼はただ感覚的であるわけではない。比喩や隠喩を使って別の現実的感覚を表現する。お互いに関係のないような二つが、彼の手によって一つのものにまとまる。支那人の群れは海底の昆布のようでもあり、海底の昆布は支那人の群れのようでもある。皮を剝れた無数の豚は己の身体で肉色の洞穴という新しい場所を造る。彼の表現によって切り開かれた新しい感覚や新しい場所はやがて別の現実をつくりだす。レトリックの対象たちは彼によってその距離感をゼロにする。対象の距離感が変化すると、新しい現実を感じ取れるようになる。このとき、彼の眼で凝視されたものを媒体として二つの現実のイメージが綯い交ぜになり、新感覚が浮き彫りになる。

 俯いた眼を上げて雨に煙る街を見た。醜く焼けただれた街がひらけている。空襲のため僅かに外廓ばかりが焼け焦げて残っている灰色のビルジング、蒼ざめた内部の壁を見せた半壊の建物、ところどころ建築資材を積み重ねてある空地。畑にしようとする人もないと見えて、空地には雑草が雨に煙ってよく見えない。人の姿一つないこの荒涼とした風景の中を、高架線を走る電車の音が、ときどきやるせなげに聞えて来る。この風景は、天気のいいよく晴れた日でも、やはり寒々とした精神の衰えを感じさせるのだ。まったくの廃墟だ。この廃墟にはまだ春が来ない。永遠に春が来ないように見える。今日のように雨の降っている日には尚更だ。だから雨の降る日は大嫌いなのだ。僕は窓を閉めようとして、鉄の把手を握った。
福永武彦『塔』河出文庫 p.46-47)

 最後に福永武彦の短編集『塔』に収録されている『雨』の一節を引いて話してみたい。彼が街を眺めているとき、彼と街のあいだには水のイメージと「僕」自身の情感が存在する。しかしこの文章全体に流れている隔世感を見逃してはならない。灰色のビルジング、半壊の建物、雨に煙った空地はどれも戦争によって激しい変化が起きた跡をあらわしている。それらは「僕」自身の情感と対応している。そして全体を雨という水のイメージが包み込んでいる。彼の眼が見つめる景色のピントを絞れば絞るほど、彼自身の持つ隔世感が強まる。「僕」の見ている世界はすでに変わってしまっている。変わってしまった世界は次の変化が訪れるかどうかさえもわからない状態にある。「僕」は街の変化との隔絶を自覚し、それによって彼の持つ叙情性が高まる。したがって彼の対象との隔絶がより彼と対象との絆を強くする。彼にとって街との距離感は物理的な変化と心理的な変化とで対立しているが、対立しているがゆえに成立している。

 以上、自分の好きな作家の文章を取り上げて色々話してみました。これを機に作家の興味を持っていただけるのなら幸いの限りです。

小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)

小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)

檸檬 (新潮文庫)

檸檬 (新潮文庫)

上海 (岩波文庫)

上海 (岩波文庫)

塔 (河出文庫)

塔 (河出文庫)

人物描写について考える

 小説を書くとき、人間をどのように描写するかでよく迷うことがある。

 迷うといっても、それを一日中考えて解決のきざしがやっと見えるというわけでもなく、いよいよ書く気持ちになってテキストエディタと向かい合い、そろそろ自分が書くであろう人物が出るか出ないかのところで手がピタリと止まる。いったいどうすれば自分の思いえがいているイメージを的確に伝えられるのだろうか? 考えれば考えるほど本来の目的は意識の外に追いやられ、代わりに浮かんできた疑問はしばらく頭のなかをぐるぐる泳ぎまわり、やがてぶよぶよの沈殿物のような感触を得るようになる。それをぐっとつかもうとしても、なけなしの思考は霧のように輪郭が曖昧になり、答えにたどり着く道筋は見えてこない。

 もちろんそんなことを考えているあいだは手が動いたりすることもなく、いつのまにか目の前の空欄は大きな白い壁に変わっている。向かい合うものではなく、立ちはだかるものになってしまった時点で、私の文章に対する姿勢は書こうとするときとはまったく違うものになってしまったのだと思い知らされる。長く考える時間を長く書ける時間に注げられたらどんなにいいだろうとは思うが、書くうえで考える余地が生まれた以上、私のばあいは自分のなかでその課題をある程度消化できないと先も後もうまくいかないことが多いので、考えるよりほかはないとも感じる。

 人間を文章で表現しようと思うとき、まずその手法について考える前に、私の目が現実の人間をどのようにとらえているのかということから考えていきたい。

 経験則でいうならば、私の目が人間をとらえているとき、《服装や髪型、その時点での表情や身につけている持ち物などの外見から判断できる身体的性格》と《発言の内容や行動の流れ、ある表情からある表情への変化などから判断できる心理的性格》(以下、このふたつを定義とおき、前者を①、後者を②とよぶ)に大きく分けることができる。また、顔が見えずとも声の高さだけで相手の性別を判断できる要素にもなったり、声の調子を変えると自分の印象や心情も違ったものを伝えられることから、人間の声そのものや声のトーンという要素は①でも②でもあてはまり、身体と心理の両面的な性格を見つけることもできる。ほかにもいろいろな要素を見つけられるかもしれないが、とりあえずはこのふたつの定義で私の論を進めていく。

 ①は平面的で、②は立体的だ。それぞれシャッターカメラの写真とビデオカメラの動画との違いを思い出せばいい。写真に映る人間は動かないが、動画に映る人間は動く。このとき、カメラのレンズは人間のほかに、写真なら時間の一点、動画なら時間の連続した線をとらえているといえる。写真の人間は面的で、立体空間をある面に沿ってスライスした断面におさまっている。写真のなかでは風景の奥行きや陰翳などの立体的な位置をとらえることができるが、人間の性格という点に限っていうならば、写真の人間は主に①で構成されている。しかし、①の情報を得たからといって、それだけでその人間の性格を完全にとらえることができたとはいえない。時間が止まっている人間の姿からは、その瞬間の気持ちのニュアンスは伝えられても、連続的な時間にある日常生活の営みからかたどられるような全体の性格までは十分に表現できないからだ。外見から得られる印象だけで心理的な奥行きがほとんど見られないような性格は、平面的といえる。しかし逆にいえば、①は時間の連続性を必要とせず単純に相手の印象を任意の瞬間でダイレクトに伝えることができる。時間の止まった写真の人間の印象を判断するとき、私たちは瞬間の性格という点を見つめようとしている。

 動くことに大きな意味を持つものをひとつ挙げるとするならば、私は人間の心理と答える。心理はまわりの環境からの刺激や自発的な感情の反応によって動きつづける。時間や状況によって心理はその姿を常に変え、瞬間瞬間にある人間の表情たちは前後関係によってそれぞれの意識の肌を互いにきわだたせる。ふつう、生まれてからずっと泣きつづけている人間なんていないし、死ぬまでよろこびつづけている人間もいない。憎しみさえその原因によって大きく波立ち、原因の解決なしにとつぜん感情の水面が完全に静止することはまずない。涙はそのうち疲れ果てて泣き枯らし、よろこびはいつのまにかその方法を忘れ、憎しみはわざと思い出そうとする行いがそれ自身を支えていることもある。つぶさに見れば、ある精神状態Aからある精神状態B、ある精神状態Bからある精神状態C、ある精神状態Cからある精神状態D……というように、心理は時間の流れによる精神の移り変わりによってその意味を成り立たせている。それはそれぞれの意識という点が時間の過程というひもで結ばれて切れ目のない線を構成しているという意味で、連続的といえる。

 時間が止まれば何も動くことはない。何かが動くためには瞬間的ではなく連続的な時間という条件が不可欠だ。その点で、②はこの条件を厳密に守る。私たちが相手の性格を把握しようとするとき、理解という姿勢でその人間全体を深く洞察するならば、①よりも②のほうに比重が置かれることが多い。①の要素は相手の外見的な性格と内面的な性格に矛盾を起こすこともあるが、②の要素は相手の心理動向そのものに直結していて、私たちに推察と再考の余地を与えてくれる。つまり、自分自身の中に浮かび上がった相手の像が外見という輪郭のほかに思想という色彩を帯びる。それが虚像や誤解かどうかは問わない。現実ではそういう場面もあるが、小説の人物描写においてはそれが事実になるからだ。相手の言葉と行動から、自分が生み出した相手の像にきざまれる心理的な奥行きがひろがり、真実のひだが波立つ。全体の性格がわかる余地が十分にあり、掘り下げられるという意味で立体的といえる。これも逆にいえば、②は性質そのものに時間の連続性が前提にないとそもそも成り立たない。②を判断するとき、相手の言動から思想の姿勢をとらえるのは瞬時にできるものではなく、どうしても思考時間の経過と余地が生まれてしまう。永遠にのびる性格の線から、私たちは任意で長さを決めたある時間の線分だけを切り取ってそれをなぞろうとしている。

 ここで注意しておきたいのは、私は①と②のどちらが重要なのかということを論じるつもりはないということだ。私なりに①と②の性質を掘り下げながら話したまでで、平面的な①と立体的な②のあいだに価値判断の高低差は生まれないと考える。むしろ、小説における人物描写という点で話せば、このふたつは描写のタイミングと条件を考慮した使い方によって大きな効果をもたらしたり、また使い方しだいでその逆もありうると考えられる。

 ①と②の性質をそれぞれ話したうえで、ようやく人物描写の手法について話すことができる。前述を吟味しながら、私なりの手法を自分自身で考案してみたい。

 ①から考えられる描写の手法については、《服装や髪型、その時点での表情や身につけている持ち物などの外見から判断できる身体的性格》という定義の通り、描写する人物の性格がつかめるように外見の特徴的な要素を書くことが思い浮かぶ。特徴的とは言ったが、これは書き手自身の裁量と性格にもよる。もちろん自分の書く物語の文脈から外見的な条件を求められることもあるだろう。たとえば、物語の季節が猛暑だったばあい、登場人物のひとりが初登場で真冬の服装をしていれば不自然な印象を受ける。その話の先の展開にもよるが、そのことにまったく言及されなければ不自然さは話の結末まで尾を引くことになる。人物の外見や舞台の環境を含んだ物語全体の設定を条件と言い換えれば、書き手は特別な事情がない限り効果的あるいは合理的に条件を満たしているか考慮せざるを得ない。

 では、外見の描写で相手の性格をどのように書けば効果的に伝わるのだろうか。考察のひとつとしては、①は人物の身体に付属している性質を持つから、それらには読み手に抽象的なイメージを表そうとする象徴的なニュアンスや属性も含まれているのが考えられる。たとえば、ピンクのカチューシャは女性の持ち物、タキシードは男性の礼装、王冠は王族の証、どぎつい配色の服装は趣味が悪いという印象、ほかにも思いつけるだけ思いつける。これを十分に生かせば、①の性質を使いこなすことができるだろう。しかしここで考えておきたいのは、逆に象徴が持つニュアンスや属性を不必要に頼りすぎることで、描写する人物の性格のイメージに安直な印象の氾濫を起こしかねないおそれもあるということだ。あくまでも私は①の象徴的な性質はそれらに付随する人間の性格、もしくは日常生活や習慣から由来するものであり、簡単に象徴的な性質だけ扱ってもそれが人物本来の性格に根ざした表現になるとは限らないと考えている。描写する前の人物の身体は透明だ。鼻も目も口も、髪型も服もない。しかし小説では人物の全部が全部を表現する必要はなく、的確な表現をひとつふたつ被せるだけでその人物の全体像が一気に明瞭になることがある。もしくはそのタイミングで書かなくても、物語は一本の筋でつづいているので、書こうと思えば展開の任意の場所で書けるポイントも見つけられる。つまり、描写の加減と筋のどのあたりで書くのかも重要だと考えられる。

 ここで話しておきたいのは、どうして①は象徴的なニュアンスを感じることができるかというと、まず私たちが象徴から得られるニュアンスを意識のなかでそれ以前に習得しているからであり、それらは必要なときに応じて意味や印象という形を与えてくれる。①は平面的だという説明を前述で話したが、それに沿って考えればこれも写真のくだりと同様の考え方ができる。つまり、①の持つ瞬間の性格と時間の連続性を必要としない性質は、ある象徴をとらえてその意味や印象を自然に思い浮かべるというばあいにも前述と同様の性質を受け持つことができると言える。ひとつ違うのは、話す主語が人間の性格なのか、それともある象徴なのかという点だが、人間の性格をキャラ、つまりは象徴の集合ととらえてしまえば、複雑に入り組んではいるがひとつひとつは同様に議論できる。

 ②から考えられる描写の手法については、《発言の内容や行動の流れ、ある表情からある表情への変化などから判断できる心理的性格》という定義から、会話文の内容や行動描写、ほかにもしぐさや言葉づかいなどのふるまい、汗が流れるなどの不随意的な反応の描写などが思い浮かぶ。話す会話の内容からはもちろん、人物が場面ごとにどのような行動や反応をしたのかの積み重ねによってその心理的性格がおのずと浮かび上がってくるといえるだろう。たとえば人見知りの激しい人間を描写したいのなら、他人と話すときにあまり目を合わせられない反応をとったり、状況が状況だと流暢に喋るのが難しい、人と話すことを意識的に避けようとする、あるいは緊張する場面で無意識に下を向いてしまうなどの、性格をつかめるいくつかの動作を物語の流れのなかでたびたび書くことによってその人物が持つ②の要素を効果的に表現できる。その人物だけがとるような特定の行動は、その人物の個性に直結する。ここで考えたいのは、どの描写にも時間の経過が必ず絡む。②を説明するほうでも話した通り、言動の表す心理的性格は時間の連続性を厳密に守った線的なものだ。発言や行動には必ず一連の始点と終点による時間の線が存在し、人間の心理は変わることに大きな意味を持つ。変わるということは、時間が流れているということだ。つまり、人間の心理動向には常に時間の過程という背景があり、このふたつは互いに強く影響しあっているといえる。

 ここでひとつ気づくことがある。時間の流れを無視した心理描写は成り立つのかどうかということだ。前述でも話したが、人間の心理動向には性質そのものに時間の連続性、つまり時間が生み出す過程の線が前提にないと②と同様にそもそも不成立になる。これは現実世界で厳密に成り立つが、しかし小説という文章媒体ではこの前提が守られてなくても条件が成り立つことがある。それは物語じたいの問題ではなく単純な書き方の問題にあって、たとえば物語の冒頭で描写する人物に性格の設定や心情などをその人物自身から箇条書きのような羅列で語らせたり、本来の話の文脈とは説明や脈絡もなく「その人物はこの場面で本来そういう心情である」と前提としてあつかい、それによる行動や会話を描写することで先ほどの定義と矛盾しても描写の存在はできる。このばあい、心情には人物の意志という意味も含まれる。現実の感覚に根ざした話を考えるのなら、心情の前後には必ずそれを引き起こす隠された因果関係というものがあり、言い換えれば因果関係は時間の過程のなかにある文脈だ。それらをまったく無視した状態で心情や人物の身の上を物語の前提で書かれていても、印象としては不自然さを持ってしまうだろうし、なによりあまり効果的ではない手法だと私は考える。小説は、主に人間の営みや姿勢を文章でえがくものだ。それが人間によって書かれている以上、その人間の認識につきまとっている現実という感覚はやはり無視できない要素だと思えてならない。

説明と描写の違いについて考える

 本当はシンデレラガールズの記事を最初に書きたかったのですが、あまりにも完成の目処が立っておらずデロデロの状態が続いてるので、とりあえずは別で話していた文章についての話をある程度形を整えたものとして書き残すことでお茶を濁そうと思います。

 たとえ形を整えたとしても胡乱なものに変わりはないんですが、考察のなかで掻き分けられるところはなるべく掻き分ける、掻き分けきれないところはむやみに掻き分けたりしない、という方針で書いていきます。フィーリングを言語化して突き詰めていくのが一貫したスタンスです。今回は説明と描写をある基準でざっくり分けることを目標としながら、その違いをちょこちょこっと探っていきたいと思います。

用語の確認

 記述内で使っている言葉のブレをなるべく抑えるため、用語の定義を確認しながら話を進めていきます。まずは「説明」と「描写」の二語から。出典は『明鏡国語辞典』です。

描写:具体的イメージを伴うようなしかたで、対象を描き出すこと。特に、芸術作品として、知覚・認識した形態・情景・感情などを言語・絵画・音楽などによって具体的に表現すること。「心理ー」

説明:ある事柄の内容や意味を、相手によくわかるように述べること。「事情をーする」

 とまあ手元の辞書から引っ張ってきたわけなんですが、この定義を額面通りに解釈したときにいまから話す小説の文章、こと地の文にそのまま当てはめると意味がはみ出たり狭くなってしまうおそれがあるので、もう少し掘り下げながら最終的には言葉の定義を再配列します。

どのような基準でざっくり分けるのか

 文章を読んでいると、「この一文は説明っぽい」「ここの部分はほとんど描写に近い」ということが感覚で判別できるんですが、いざ「描写と説明の明確な違いは?」と聞かれると私は返答に窮します。おそらくすぐには答えられないでしょう。なぜなら描写と説明の性質は互いに対照的でもその線引き自体は曖昧で、はっきりと簡単に区別がつくものではないと私は考えてるからです。

 描写と説明のバランスをガラス棒の温度計にたとえれば、0度の部分を「説明」、100度の部分を「描写」というように設定すると、文章における30度(描写より説明の度合いが強い)の記述、もしくは80度(描写より説明の度合いが強い)の記述、さらには6度、52度、93度……といったふうに、だいたいの目安はつくものの厳密に分類するのは至難の技だと思います。

それでも何かしら判別の軸が欲しい

 そもそもなぜここまで気にするかというと、主に私が文章を書くときにどの記述を描写あるいは説明にするのか、考えているといつも藪の中をがむしゃらにかき分けているような気持ちになってくるので、せめて描写か説明をどのように書き分けるかという方針が必要だと思ったからです。

 さきほど描写と説明のバランスを「ガラス棒の温度計」とたとえましたが、ある文章における描写と説明の温度(二つの度合い)を示しているのならその示しているときの赤線(目印)自体を判別できる何らかの根拠が欲しいということです。というわけでその根拠をいまから設定します。

描写→語り手の「主観的な」記述、説明→(誰が読んでも同じような)「客観的な」記述へと分類する

 話に入る前に「客観的」「主観的」「主体」という言葉も辞書で引いてみます。

客観的:①主観または主体に関係なく、独立して存在するさま。「否定できないーな事実」②主観を離れ、誰もがそうだと納得できるような立場から物事をみるさま。「ーな意見を求める」

主観的:①対象についての認識・評価・判断などが個々の人間の意識の働きに基づいているさま。「ー観念論」②自分ひとりだけの見方・感じ方にとらわれているさま。「ーな考え」

主体:①性質・状態・作用などの主として、それを担うもの。特に、認識と行動の担い手として意志をもって行動し、その動作の影響を他に及ぼすもの。「認識のー」「行政権のーたる内閣」②物事を構成する際に中心となるもの。「写真をーとした雑誌」

 これについては定義そのままの意味で話を進めても特に問題はないと思います。ただ「主観的」②の意味はネガティブの方向に捉えがちなので、以後の内容では「客観的」は①と②の意味を含め、「主観的」と「主体」は①(≠②)のみの意味をベースにしながら話していきます。

 ここでいったん上で述べた「説明」の定義に立ち戻るのですが、「ある事柄の内容や意味を、相手によくわかるように述べること。」とはいったいどういうことなのでしょう。

 「よくわかるように」って、あまり具体的ではない表現だと思います。話し方にもよりますが、よくわかるように説明するためには話すときに不十分な情報を限りなく減らす、つまり伝えるべき情報を過不足なく話すのが必要条件だと私は考えたので、以後は「よくわかるように」を「過不足なく」と置き換えて話を進めていきます。

 さらに、誰かに何かを説明するときは主観的あるいは客観的に話す方法がありますが、話している相手個人だけではなくより多くの相手に自分の状況を理解させるためには、なるべく誰が読んでも同じように感じる客観的(普遍的)な話し方が望ましいので、説明を説明たらしめているものは客観的な要素だと私は解釈し、「説明」を客観的な記述のグループへ分類しました。

 では、「描写」はどうなってくるのでしょうか。上述の定義によれば、「知覚・認識した形態・情景・感情などを言語・絵画・音楽などによって具体的に表現すること。」と書かれています。

 描写を具体的に表現するのは誰でしょう。それはもちろん語り手です。すると描写の中にある感覚・情景・感情などの記述はほかの誰でもない語り手に依存するということになります。

 描写が表現者のみに依存するということは、記述の表現はその表現者の意識に基づいてる(感じ方は誰でも同じではない・普遍的ではなく特殊的)ので、これは先述の「主観的」の定義に限りなく沿っています。よって、描写が描写らしくあるためには主観的な要素が入ってるのが必要条件だと私は解釈し、「描写」を主観的な記述のグループへ分類しました。

客観的・主観的な印象を生み出している要素は何か

 説明の表現は誰が読んでも同じように感じる過不足のない記述、対して描写の表現はその表現者自身の意識のみに基づいている(感じ方は誰でも同じではない・過不足があってもよい)記述とすれば、この二つの明確の違いは語り手が別の人物の主体に移り変わっても文脈も鑑みて記述が成立可能であるか否かが決め手になってくると考えられます。

 したがって、ある記述に対して語り手Aがたとえば主体などを変換して別の語り手Bへ交換可能であったらその記述は客観的、つまり説明的な傾向がある文章とみなしてよく、ある記述に対して語り手Aから別の語り手Bへ交換不可能であったらその記述は主観的、つまり描写的な傾向がある文章とみなしてもよいということです。

 描写は語り手の感覚・情景・感情などの意識に直接結びついているのでその表現自体も語り手固有のものになります。それは主体や主観を離れて独立しているもの(「客観的」①②の意味)ではなく、表現者に依存した個々のものになるためたとえ主体を変換しても記述や文脈としては成立不可能となります。

 私が地の文でSSを書くときは一人称視点がメインなのでこの話もだいぶ一人称視点よりの考えに沿っている……と思うのですが三人称視点に置き換えてもある程度は通用すると思います。

 そもそも小説は「誰の視点を通して何を記述するのか」が基本的な考え方なので、視点が移動したとしてもこの話の核が崩れることはそうそうないと思います。おそらく。しかしながら三人称視点についてはまだまだ私が模索している段階なので、何かわかったことがあれば加筆する予定です。

描写と説明を判別する具体例

 とまあ私なりの理屈をつらつら述べてみましたが、実際に文章へ適用してみないとしっくりこないと思います。というわけなので私が書いたSSの方から例を引っ張り出してみます。一作目の「双葉杏が掃除をする話」の冒頭より。

「たまには事務所の掃除でもするか」

 まどろみの中で聞こえたその言葉は、一分もかからずの至福のひとときを終わらせた。

「杏、掃除だ掃除。ちょっと起きてくれ。ほら、早く」

 軽く肩をつかまれ、左右に身体を揺さぶられる。突然のことでまだ意識が朦朧としている私は、そのままお気に入りのうさぎのクッションから冷たい床にぐでんと倒れた。

 引用の中から『まどろみの中で聞こえたその言葉は、一分もかからず私の至福のひとときを終わらせた。』という一文を抜き出します。このSSは一人称視点で書かれているので主体は双葉杏の「私」です。

 もともとの主体Aがまったく別の主体Bに交換可能であればこの一文は客観的・説明的な要素を含んでいるということになります。ためしに「私」を「プロデューサー」に置き換えてみます。

 『まどろみの中で聞こえたその言葉は、一分もかからずプロデューサーの至福のひとときを終わらせた。』

 どうでしょう。前文の『たまには事務所の掃除でもするか』という会話文も考慮すれば、文脈が通っていません。というわけで、主体は交換不可能であり、この一文は描写的な要素を含んでいると判断できます。

 それからもうひとつ。抜き出した一文の中には『私の至福のひとときを終わらせた。』という語り手の感情が含んだ表現が入っていて、これも描写的・主観的な文章なのかを判別する要素になりえます。逆に言えば、客観的・説明的な文章には感覚・情景・感情などの語り手の意識に結びついた記述は入っていません。

 同作の中盤付近からも抜き出します。

「こんなもんかな」

 ひと通りやるべきことを終わらせたあと、私とプロデューサーは事務室の全体を遠目で眺めていた。

「あんまし変わってないね」

「だな」

  彼は私の言葉に頷く。

 まあ、掃除と言ってもやってたのは雑巾で色んな場所を適当に拭いてたのと、掃除機ウィンウィンかけてただけだしね。

 『まあ、掃除と言ってもやってたのは雑巾で色んな場所を適当に拭いてたのと、掃除機ウィンウィンかけてただけだしね。』という一文を抜き出します。文の中に主語が入っていませんが、一人称視点のSSなので主体は語り手と同一です。

 明確な主語が書かれていませんが、ためしにこの一文の主体をまったく別の主体であるプロデューサーに置き換えてみます。つまり、プロデューサーが抜き出した一文とまったく同じことを言っていたとします。前文の文脈として、双葉杏とプロデューサーは一緒に掃除をしているという前提があります。

 すると、例文はプロデューサーが言っていたとしても文脈に違和感がありません。つまり主体が交換可能ということになり、この一文は説明的な要素を含んでいると判断できます。

 また、例文は口語にかなり近いですが、語り手の感覚・情景・感情などの記述は入っておらず、主語が書かれていないということはたとえ主体がなくても例文が独立して存在できるということになるため、これも客観的・説明的な文章なのかを判別する要素になりえます。

まとめ:描写と説明の定義の再配列

 いろいろと話しましたが、改めてここまでの話を踏まえたうえで描写と説明の定義を再配列していきます。

 描写:語り手の感覚・情景・感情などの意識に直接結びついている記述と表現。その表現自体も語り手の固有のものとなる。語り手の主観性と大きく関わっており、主体と独立して存在できない。

 説明:誰が読んでも同じように感じる過不足のない記述と表現。表現自体は普遍的であり表現者そのものには依存しない。つまり感覚・情景・感情などの語り手の意識に結びついたものは含まれていない。客観性と大きく関わっており、主体と独立して存在できる。

 あくまでこの判別方法は描写と説明の違いをざっくりと分けるものであり、厳密に違いを精査するということには向いてません。読む・書くときにある程度の指標になればいいという具合です。今回はうまくいきましたが、この方法を使ってもなかなか判断ができなかったり難しいということがそこそこあります。あるいはもともと描写と説明の割合が五分五分だったということも。何度も言いますが、ためす場合はざっくり判断でお願いします。

 ほかに何か気づいたことがあれば加筆修正する予定です。長々と書いてしまいましたが、ここまで読んでくださった方に大きな感謝を。